ゴットフリート・ケラー

原綴
Gottfried Keller
生没
1819–1890
出身
チューリヒ
ドイツ
時代
19世紀

生涯

1819年、チューリヒの旋盤工の家に生まれた。五歳で父を失い、母が針仕事で一家を支えた。

十五歳のとき、教師への抗議行動に加わったとして学校を退学処分になった。以後、正規の教育を受けていない。

画家を志し、1840年にミュンヘンへ出た。だが五年後、才能がないと判断して断念する。この挫折が後の代表作の素材になった。

チューリヒへ戻って詩を書き始め、政治的な詩で注目された。1848年の革命期には自由主義の立場から発言している。州の奨学金を得てハイデルベルクとベルリンで学び、フォイエルバッハの講義を聴いて信仰を失った。

ベルリンでは劇作家として立とうとしたが果たせず、代わりに小説を書いた。1855年に『緑のハインリヒ』初版を刊行するが、評価は芳しくない。

1855年に帰国し、貧窮のうちに数年を過ごした。1861年、チューリヒ州の書記官長に任命される。以後十五年、行政官として働きながら、執筆はほとんど中断した。

1876年に退官し、以後の十四年で主要な作品を書き直し、あるいは新たに書いた。『緑のハインリヒ』の全面改稿もこの時期である。

生涯独身で、母と妹と暮らした。数度の求婚はいずれも実らなかった。1890年、71歳で死去した。

作風

ケラーの小説は、人が自分の身の丈を知る過程を扱う。

主人公は多く、思い上がりや空想によって現実から離れる。芸術家になれると信じる青年、無用の意地を張る職人、身分不相応の恋。彼らは失敗し、そのなかで自分が何者かを学ぶ。

だが説教にはならない。語り口に諧謔があり、人物の愚かさを笑いながら、突き放さない。取り返しのつかない結末を書くときも、文章の調子は温かい。

ゼルトヴィーラという架空の町が、複数の作品の舞台になる。住民は陽気で怠惰で、ときどき破産する。この町を通じて、スイスの市民社会が観察される。

写実的でありながら、寓話と幻想が混ざる。『三人の正しい櫛職人』では、三人の職人が完全に同じ行動をとる存在として描かれ、その滑稽さが誇張される。現実の記述と、寓話の造形が同じ平面に置かれる。

自然描写は精密である。画家を志した経験が、光と色の記述に出ている。

信仰を失った後の作品には、地上での生をそのまま肯定する態度がある。来世を前提としないからこそ、この世でどう生きるかが問題になるという構えである。

作品

『緑のハインリヒ』(初版1854〜55年、改訂版1879〜80年)

主著である。画家を志してミュンヘンへ出た青年ハインリヒが、才能の限界を知り、母の死に間に合わずに帰郷するまでを描く。ケラー自身の経験に基づく教養小説にあたる。初版では主人公が死ぬが、改訂版では生き延びて役人になる。この改変が、作品の意味を大きく変えている。

『ゼルトヴィーラの人々』(第一部1856年、第二部1873〜74年)

中篇集である。「村のロメオとユリア」は最もよく知られた一篇で、境界の土地をめぐって争う二人の農夫の子どもたちが恋に落ち、生きる場所を見つけられずに心中する。

『七つの伝説』(1872年)

聖人伝を書き換えた短篇集である。

『チューリヒ短篇集』(1878年)

チューリヒの歴史を素材にした作品を集める。

『マルティン・ザランダー』(1886年)

最後の長篇で、投機に翻弄される市民社会を批判的に描いた。

日本語では「村のロメオとユリア」が読みやすい。『緑のハインリヒ』も訳がある。

文学史における立ち位置と影響

ケラーは、19世紀ドイツ語散文の最も重要な書き手の一人とされる。ドイツ語圏で「詩的リアリズム」と呼ばれる潮流の代表にあたる。現実を写しながら、そこに寓意と諧謔を織り込むという方向である。

教養小説の系譜では、『緑のハインリヒ』がゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』の後継として扱われる。ただし主人公は世界のなかで成長するのではなく、自分にできないことを知る。この点で、教養小説の型を内側から変えたと論じられてきた。

ニーチェはケラーを高く評価し、ドイツ語の作家として同時代で唯一認めると述べたことがある。ベンヤミンヘッセも論じている。

スイス文学の中心的な人物でもある。ドイツ語で書きながらスイスの市民社会を主題にした点で、この地域の文学の出発点に置かれる。20世紀のフリッシュデュレンマットは、この伝統を批判的に引き継いだ。

「村のロメオとユリア」はオペラ化され、映画にもなっている。

日本では森鷗外が紹介し、大正期から翻訳がある。

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