フリードリヒ・デュレンマット

原綴
Friedrich Dürrenmatt
生没
1921–1990
出身
コノルフィンゲン(スイス、ベルン州)
ドイツ
時代
戦後

生涯

1921年、スイスのベルン州の村に、プロテスタント牧師の子として生まれた。

ベルンとチューリヒの大学で哲学と文学を学ぶ。画家を志した時期もあり、生涯にわたって絵と素描を描き続けた。

1946年に結婚し、家族を養うために書き始めた。初期は困窮しており、生活費のために推理小説を新聞連載で書いている。

1952年からヌーシャテル湖畔のヌーシャテルに住み、以後そこを離れなかった。

1956年の『老貴婦人の訪問』が国際的な成功を収め、以後、世界各国で上演される劇作家になった。

1968年から二年、バーゼルの劇場の共同経営に加わったが、対立して離れている。

政治的な発言も続けた。スイスの中立と繁栄への批判、ベトナム戦争への反対、イスラエルとパレスチナをめぐる講演など。1990年、劇作家から民主化後のチェコスロヴァキア大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルを前にした講演で、スイスを刑務所に喩え、住民が看守を兼ねていると述べた。同じ年、心不全により69歳で死去した。

作風

デュレンマットは、現代においては悲劇が書けないと考えた。

悲劇には、罪を負う主体と、責任を問える秩序が要る。だが現代の破局は、誰も意図しないまま、組織と偶然の積み重ねによって起きる。責任の所在が分散して消える。だから喜劇の形式でしか書けない、という立場をとった。

その喜劇は笑えるものではない。『老貴婦人の訪問』では、没落した町に大富豪の老女が帰郷する。町を救う金を出す条件は、かつて自分を捨てて裁判で偽証させた男を殺すことだった。町の人々は当初これを拒む。だが誰もが少しずつ贅沢を始め、支払いをつけで済ませ、いつのまにか引き返せなくなる。誰も殺意を口にしないまま、男は殺される。

方法として重要なのが「最悪の転回」である。デュレンマットは、劇は考えうる最悪の事態へ向かって進むべきだと述べた。偶然が事態を悪化させ、その偶然が必然に見える形で組み立てられる。

物理学と技術も主題になる。『物理学者たち』では、世界を破滅させる発見をした物理学者が、それを隠すために精神病院へ逃げ込む。だが病院長がすでにその成果を握っており、逃げ場はどこにもない。

推理小説も同じ思想で書かれた。名探偵が推理によって真相に到達するという型を壊す。『約束』の副題は「推理小説への鎮魂歌」で、論理的に正しい推理をした刑事が、まったくの偶然によって真相に到達できず、そのまま人生を失う。

作品

『ロムルス大帝』(1949年)

ローマ帝国の滅亡を扱う喜劇である。滅ぶべき帝国をあえて滅ぼす皇帝を主人公にする。

『老貴婦人の訪問』(1956年)

代表作である。

『物理学者たち』(1962年)

1960年代に世界で最も上演されたドイツ語戯曲の一つになった。

『判事と死刑執行人』(1952年)と『嫌疑』(1953年)は推理小説である。

『約束』(1958年)

推理小説の形式を批判的に用いた作品で、映画化もされている。

『失脚』(1971年)

名前を持たない政治局員たちの会議を描く中篇である。

日本語では『老貴婦人の訪問』『物理学者たち』『約束』が読める。

文学史における立ち位置と影響

デュレンマットは、フリッシュと並んで戦後スイス文学を代表する。二人はしばしば対で扱われるが、フリッシュが個人の同一性を扱ったのに対し、デュレンマットは制度と偶然を扱った。

演劇史では、ブレヒト以後の世代に位置づけられる。社会の構造を舞台で見せるという方向は共有するが、ブレヒトが世界を変えられるという前提に立ったのに対し、デュレンマットはそれを疑う。この違いが、二人を対比する際の要点になっている。

グロテスクな喜劇という形式は、以後の演劇に受け継がれた。悲惨な事態を笑いのなかで示す方法は、20世紀後半の政治的な演劇で広く使われている。

『物理学者たち』は、科学者の責任を扱う作品として、ブレヒトの『ガリレイの生涯』と並べて論じられる。核兵器の時代における研究者の位置という問いを、二人が別の答えで扱った例にあたる。

推理小説の形式を内側から壊した作品としても評価される。偶然が論理を無効にするという構図は、ジャンルへの批評になっている。

日本では1960年代から翻訳と上演が進み、演劇の分野で受容が厚い。

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