ヘルタ・ミュラー

原綴
Herta Müller
生没
1953–
出身
ニツキドルフ(ルーマニア)
ドイツ
時代
戦後

生涯

1953年、ルーマニア西部バナト地方の村に生まれた。この地域には数百年前に入植したドイツ語話者の共同体があり、ミュラーはそのなかで育った。ドイツ語が母語であり、ルーマニア語は学校で学んでいる。

父は第二次大戦中、武装親衛隊に属していた。母は戦後、ドイツ系住民としてソ連の強制労働収容所へ送られ、五年間そこにいた。この二つが家族の背景にある。

ティミショアラ大学でドイツ文学とルーマニア文学を学んだ。在学中、体制に批判的なドイツ語作家の集まりに加わっている。

卒業後、機械工場で翻訳者として働いた。1979年、秘密警察セクリタテアの協力者になることを拒み、解雇される。以後、監視と嫌がらせ、脅迫が続いた。友人が密告者だったこと、家宅捜索、尋問、殺害の予告。この経験が作品の中心にある。

1982年、最初の短篇集がルーマニアで検閲を経て刊行された。無削除版は翌年に西ドイツで出ている。

1987年、当時の夫とともに西ドイツへ移住した。以後ベルリンに住む。

2009年、ノーベル文学賞を受賞した。受賞理由には、収奪された者たちの情景を描いたことが挙げられている。

作風

ミュラーが書くのは、独裁下の恐怖が身体と言葉に及ぼす作用である。

政治的な出来事そのものは正面から描かれない。書かれるのは、家宅捜索のあとに残る足跡、尋問室の椅子、隣人の視線、飢え。日常の細部だけが積み上げられ、その集積として恐怖が示される。

文体は詩に近い。短い文が切れ切れに並び、比喩が突飛で、名詞が異様な形で結合される。「息のブランコ」「心獣」といった造語が題名に使われている。これはドイツ語とルーマニア語のあいだで育ったことに関わる。二つの言語で世界の切り分け方が違うという経験が、語の組み合わせを不安定にしている、と本人が説明している。

コラージュの作品も作っている。新聞や雑誌から切り抜いた語を紙に貼り、詩を組み立てるものである。言葉を自分で書かず、既存の断片から選ぶという方法をとる。

証言と虚構の関係も特徴的である。『息のブランコ』は、収容所へ送られた詩人オスカー・パスティオールへの長い聞き取りに基づいて書かれた。共著の予定だったが、パスティオールが執筆中に死去したため、ミュラーが一人で仕上げている。

村の共同体への視線も冷たい。ドイツ語系少数民族の閉鎖性、ナチスへの加担、その後の被害者意識。故郷を懐かしむ書き方をしない。初期作品はこのために、地元の共同体から強い反発を受けた。

作品

『澱み』(1982年)

最初の短篇集で、バナト地方の村を扱う。刊行時、地元のドイツ系住民から非難された。

『人間は世界の大きな雉である』(1986年)

出国許可を待つ一家を描く。

『狐たちはあのとき既に猟師だった』(1992年)

チャウシェスク体制末期の監視を扱う。

『心獣』(1994年)

密告と自死が続く学生たちの話である。ドイツ語圏で最も読まれた作品にあたる。

『呼び出し』(1997年)

工場労働者の女性が秘密警察に呼び出される日の朝から、その道中だけを書く。

『息のブランコ』(2009年)

最も知られている。十七歳の少年が、ドイツ系というだけでソ連の強制労働収容所へ送られ、五年間を過ごす。飢え、シャベルの重さ、セメントの粉、収容所で交わされる言葉が記述される。

コラージュ詩集も複数刊行されている。

日本語では『息のブランコ』『心獣』が読める。

文学史における立ち位置と影響

ミュラーは、ドイツ語圏の少数民族の文学という位置にいる。ルーマニアのドイツ語話者という、国家にも民族にも完全には属さない立場から書いた。

証言と文学の関係を扱う作家として、レーヴィシャラーモフの系譜に接続される。ただしミュラーは自分自身が収容所を経験していない。他人の経験を、詩的な言語によって書き直すという方法をとった点で、この系譜のなかでも位置が異なる。

独裁体制下の日常を扱った作家として、東欧文学の文脈でも論じられる。事件ではなく、監視が人の内面をどう変えるかを書いた点が評価されている。

言語の扱いにおいては、ツェランと並べられることがある。両者とも、ドイツ語圏の外側でドイツ語を母語とし、その言語で暴力を書いた。

ノーベル賞受賞は、東ドイツ以外の東欧のドイツ語文学に光を当てる効果を持った。ミュラーが属していたバナト地方の作家たちの活動も、以後、研究の対象になっている。

日本での紹介はノーベル賞受賞後に進んだ。

登場する文学史