ゴットホルト・エフライム・レッシング

原綴
Gotthold Ephraim Lessing
生没
1729–1781
出身
カーメンツ(ザクセン選帝侯領)
ドイツ
時代
古典主義・ロマン主義

生涯

1729年、ザクセンの牧師の家に生まれた。ライプツィヒ大学で神学を学ぶよう送り出されたが、劇場に通って演劇にのめり込み、父の意向に背いて文筆の道へ進んだ。

ベルリンで批評と翻訳の仕事をして生活した。ドイツ語圏で、貴族の庇護を受けずに文筆だけで生きようとした最初期の一人である。生活は常に不安定だった。

1760年から五年間、ブレスラウでプロイセン軍の将軍の秘書を務めた。この時期に七年戦争の実態を見ており、後の作品の素材になる。

1767年、ハンブルクに新設された国民劇場の顧問に就いた。上演作品への批評を連続して書いたのが『ハンブルク演劇論』である。劇場自体は二年で経営に行き詰まり、閉鎖された。

1770年、ヴォルフェンビュッテルの図書館司書になった。書物には囲まれたが孤立した任地で、以後ここに留まる。

1774年から、匿名の神学者による聖書批判の草稿を刊行し始めた。教会との激しい論争になり、1778年、公爵から出版禁止と検閲免除の特権の剥奪を命じられる。神学の論争を封じられたレッシングは、同じ主張を戯曲の形で書いた。それが『賢者ナータン』である。

1776年に結婚したが、妻は翌年、生まれた子とともに死んだ。1781年、51歳で死去した。

作風

レッシングの仕事は、演劇の規範を組み替えることにあった。

当時のドイツ演劇は、フランス古典主義を手本にしていた。三一致の法則を守り、悲劇の主人公は王侯貴族に限られ、韻文の台詞を語る。レッシングはこれを攻撃した。フランス人はアリストテレスを誤読している、シェイクスピアのほうが古代の精神に近い、という主張である。

代わりに提示したのが市民悲劇である。悲劇の主人公は貴族でなくてよい。市民階級の人間が、身分ある者の権力によって破滅する。観客が自分と同じ立場の人間の苦しみを見るからこそ、憐れみが生じる、という論理だった。

台詞は散文で書く。韻文の様式を捨て、日常の言葉に近づけた。これがドイツ演劇の言語を変えている。

批評の方法も特徴的である。作品を賞賛したり非難したりするのではなく、なぜそう作られているのかを分析する。『ラオコオン』では、彫刻のラオコオン像がなぜ叫んでいないのかという問いから、造形芸術と文学がそれぞれ何を表せるかを論じた。絵画は空間に並ぶものを、詩は時間に継起するものを扱うという区別である。

そして寛容が全体を貫く。宗教の真理は誰も所有していない、という立場から書き続けた。

作品

『ミス・サーラ・サンプソン』(1755年)

ドイツ最初の市民悲劇とされる。

『ラオコオン』(1766年)

美学の論考で、絵画と詩の境界を論じた。

『ミンナ・フォン・バルンヘルム』(1767年)

喜劇である。七年戦争の直後を舞台に、名誉のために婚約者を遠ざけようとするプロイセンの元将校と、それを取り戻そうとする女性を描く。ドイツ語で書かれた最初の重要な喜劇とされる。

『ハンブルク演劇論』(1767〜69年)

上演評の連載という形をとる演劇論である。

『エミーリア・ガロッティ』(1772年)

市民悲劇の代表作である。君主に望まれた市民の娘が、貞節を守るために父に自分を殺してくれと頼み、父がそれを実行する。権力の恣意に対して市民が何もできないという構図が、当時の観客に衝撃を与えた。

『賢者ナータン』(1779年)

最後の戯曲である。十字軍期のエルサレムを舞台に、ユダヤ教徒の商人ナータン、イスラム教徒の君主サラディン、キリスト教徒の騎士が交わる。中心には「三つの指輪の寓話」がある。父が三人の息子に見分けのつかない指輪を残し、どれが本物か誰にも分からない。三つの宗教のうちどれが真であるかは決められない、という寓意である。生前は上演されず、初演は死後の1783年だった。

日本語では『賢者ナータン』と『エミーリア・ガロッティ』が読める。分量は小さい。

文学史における立ち位置と影響

レッシングは、ドイツ近代文学の出発点に置かれる。それ以前のドイツ語文学は、フランスの模倣か宗教的な著作に限られていた。自国語で書かれた演劇と批評が、独立した価値を持つという状況をここから作った。

市民悲劇の型は、以後のドイツ演劇の基礎になった。シラーの『たくらみと恋』はその直接の後継であり、身分違いの悲劇という構図をそのまま引き継いでいる。ビューヒナーが最下層の人間を主人公にするまでの過程は、この転換の延長にある。

批評という仕事の地位を確立した点も大きい。作品を分析する文章そのものが読むに値する、という状況を作った。ドイツ語圏で批評家が文学の中心にいるという伝統は、ここから始まる。

『賢者ナータン』は、宗教的寛容を説いた作品として繰り返し上演されてきた。ナチス期には上演を禁じられ、戦後のドイツで最初に上演された演目の一つになっている。この経緯があるため、今日でもこの作品の上演は政治的な意味を帯びる。

啓蒙思想の文学における代表としても扱われる。理性によって偏見を解体するという姿勢が、作品と論争の両方に一貫している。

日本では森鷗外が早くに紹介し、『ラオコオン』の美学は近代日本の文芸批評にも影響を与えた。

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