フリードリヒ・ヘルダーリン
- 原綴
- Friedrich Hölderlin
- 生没
- 1770–1843
- 出身
- ラウフェン・アム・ネッカー(ヴュルテンベルク公国)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
生涯
1770年、ヴュルテンベルク公国の小さな町に生まれた。二歳で父を、九歳で継父を失っている。
母の意向で牧師になるべく、テュービンゲンの神学校へ入った。ここでヘーゲルとシェリングと同室になり、生涯の交友を結ぶ。三人はフランス革命の報に熱狂し、自由の木を植えたという逸話が伝わる。
牧師になることを拒み、家庭教師として各地を移った。イェーナでシラーに認められ、フィヒテの講義を聴いている。だが定職を得られず、生活は不安定なままだった。
1796年、フランクフルトの銀行家ゴンタルト家の家庭教師になる。ここで夫人ズゼッテと恋愛関係になった。ヘルダーリンはズゼッテを作品のなかで「ディオティーマ」と呼んでいる。関係が露見して1798年に解雇され、以後は近隣から手紙のやり取りを続けた。1802年、ズゼッテは病死する。
同じ年、家庭教師として滞在していたボルドーから、徒歩でドイツへ帰った。到着したときには精神に変調をきたしていたと伝えられる。
1806年、テュービンゲンの精神病院に強制的に収容された。翌年、指物師ツィンマーの家に引き取られる。以後36年間、ネッカー川に面した塔の一室で暮らした。訪問者に対しては丁重で、しばしば「スカルダネッリ」という別名で署名し、実在しない年号を書き込んだ詩を書いている。1843年、73歳で死去した。
作風
ヘルダーリンが理想として置いたのは古代ギリシャである。神々と人間が同じ世界に住み、共同体と個人が分かれていなかった時代として描かれる。それが失われた後の時代に自分たちはいる、というのが出発点にある。同時代のゲーテや、ギリシャ美術に「高貴な単純と静かな偉大」を見た美術史家ヴィンケルマンもギリシャを理想とした。だが二人がそこに調和を見たのに対し、ヘルダーリンは取り返しのつかない喪失として見る。
だから神は不在として書かれる。かつて神々がいた、今はいない、いつか帰ってくるかもしれない。この待機の姿勢が詩の基本の構えになっている。
詩形はギリシャ・ローマの韻律を、ドイツ語へ移したものである。押韻を使わず、長短の配置で組む。ドイツ語の統語を極度に引き延ばし、語順を通常の位置から外す。文が長く、途中で折れ、修飾がどこにかかるか読み取りにくい。この難解さが、生前に読者を得られなかった一因でもある。
後期讃歌と呼ばれる作品群では、その傾向が極まる。「パトモス」「ライン」「回想」など。文が完結せず、断片のまま置かれる。20世紀の詩人が惹かれたのはこの部分である。
塔で書かれた最晩年の詩は、まったく違う。短く、平明で、四季と風景だけを歌う。押韻もある。この時期の作品をどう位置づけるかは、今も議論が分かれる。
作品
『ヒュペーリオン』(1797〜99年)
書簡体の小説である。オスマン帝国からの独立を目指すギリシャの青年を主人公とし、闘争の挫折と、ディオティーマとの愛の喪失を書く。ヘルダーリンが生前に完成させた唯一の長い作品にあたる。
『エンペドクレスの死』
悲劇で、三つの稿が書かれたがいずれも未完に終わった。
「パンと葡萄酒」「ライン」「パトモス」「帰郷」などが後期讃歌の代表である。
「運命の女神たちに」「ヒュペーリオンの運命の歌」は、比較的短く読みやすい初期の詩にあたる。
日本語では、詩の翻訳はどれも難度が高い。まず『ヒュペーリオン』を読み、そのうえで詩の抄訳に入るのが現実的である。
文学史における立ち位置と影響
ヘルダーリンは、生前ほとんど無名だった。同時代の文学史の記述に名前が出ず、19世紀を通じて、精神を病んだ二流のロマン派という扱いを受けている。
評価が一変したのは20世紀初頭である。1913年から刊行されたノルベルト・フォン・ヘリングラート編の全集が、後期讃歌の重要性を示した。以後、ドイツ語詩の頂点の一人という位置に移る。
哲学からの参照が突出して多い。ハイデガーはヘルダーリンの詩を繰り返し論じ、詩人の使命と存在の問いを重ねて読んだ。ただしその解釈がハイデガー自身の思想を投影しすぎているという批判もある。ベンヤミンも初期に詩の分析を書いている。
ナチス期には、ドイツ的な詩人として利用された。祖国と大地を歌った部分だけを切り出す読み方であり、戦後、この受容の検証が長く続いた。
詩人への影響も大きい。ツェランは言語の限界に向かう方向でヘルダーリンを受け継いだ。断片のまま置かれる文、途切れる統語、名指せないものへの接近という点で、20世紀の詩の直接の先例になっている。
日本では、大正期から紹介が始まった。ニーチェ受容と重なる形で入り、戦後にハイデガーを通じて再度読み直されている。