ヴァルター・ベンヤミン
- 原綴
- Walter Benjamin
- 生没
- 1892–1940
- 出身
- ベルリン
- 国
- ドイツ
- 時代
- 20世紀前半
生涯
1892年、ベルリンの裕福なユダヤ人商家に生まれた。青年運動に参加した後、フライブルク、ベルリン、ミュンヘン、ベルンの各大学で哲学を学ぶ。
1919年にベルン大学で学位を取得し、大学教員の資格を得ようとした。だが1925年、フランクフルト大学に提出した教授資格論文『ドイツ悲劇の根源』が理解されず、受理を拒まれる。取り下げを勧告され、学問の職に就く道は絶たれた。
以後、フリーの批評家として生活する。新聞と雑誌への寄稿、ラジオ番組、翻訳で収入を得た。プルーストの失われた時を求めてとボードレールの詩をドイツ語に訳している。生活は常に不安定だった。
1924年、カプリ島でラトビアの演出家アーシャ・ラツィスと出会い、マルクス主義へ傾いた。1926年から翌年にかけてモスクワを訪れている。同じ時期、ブレヒトと親交を結んだ。この関係は、ユダヤ神秘思想の研究者である友人ショーレムや、哲学者アドルノから批判を受けている。
1933年、ナチスの政権掌握とともにパリへ亡命した。以後七年、パリの国立図書館で19世紀のパリについての巨大な研究に取り組む。後に『パサージュ論』として遺されるものである。
1940年、ドイツ軍のフランス侵攻を受けて南へ逃れた。アメリカへの入国査証は得ていたが、フランス出国の許可がない。ピレネー山脈を徒歩で越えてスペインへ入ったところ、国境の町ポルボウで、翌日フランスへ送還されると告げられた。その夜、モルヒネを大量に飲んで死去した。48歳だった。翌日、他の同行者たちは通過を許されている。
作風
ベンヤミンの批評は、作品を歴史と技術の条件のなかに置く。
作品の価値を論じるのではなく、その作品がどういう社会の条件のもとで成立し、どう受け取られるかを問う。『複製技術時代の芸術作品』では、写真と映画の登場によって芸術の在り方が変わったと論じた。複製ができる以前、作品には「いま・ここ」にしかないという性質があった。これをアウラと呼ぶ。複製技術はそれを消す。ベンヤミンはこれを喪失として嘆くのではなく、芸術が儀式から解放される可能性として扱った。
書き方は断章的である。長い論証を積み上げるのではなく、短い断片を並べ、その配置によって考えを示す。『一方通行路』は、街の看板や標識を模した見出しの下に短文が並ぶ形式をとる。
引用の扱いが独特である。『パサージュ論』は、大部分が他人の文章の引用でできている。引用だけで構成された書物を作るという構想を語ってもいた。断片を集めて配置すれば、書き手が論じるより多くのことが現れるという考え方である。
歴史の見方も特徴的である。歴史は進歩の連続ではない。過去のある瞬間が、現在のある瞬間と突然につながり、そこで意味が生じる。「歴史の概念について」に出てくる、翼を広げたまま瓦礫の山から吹き飛ばされていく天使の像が、この歴史観を示す形象として広く知られる。
マルクス主義とユダヤ神秘思想という、通常は相容れない二つの思考が並存している。この混淆がベンヤミンの独自性であり、同時に同時代の友人たちが批判した点でもあった。
作品
『翻訳者の使命』(1923年)
ボードレール訳の序文として書かれた翻訳論である。翻訳は原文の意味を移すのではなく、言語同士の親縁性を示すものだと論じた。
『ドイツ悲劇の根源』(1928年)
17世紀ドイツのバロック悲劇を扱う。受理を拒まれた教授資格論文である。寓意を象徴より高く評価した点が、後に大きな影響を持った。象徴が全体を一息に示すのに対し、寓意は断片を寄せ集めて意味を作る。この断片の側に価値を見る態度が、以後の仕事を貫いている。
『一方通行路』(1928年)
断章集である。
『複製技術時代の芸術作品』(1936年)
最もよく読まれている。
『歴史の概念について』(1940年)
死の直前に書かれた十八の断章である。歴史における進歩の観念を批判した。
『パサージュ論』
未完の遺稿である。19世紀パリのアーケード(パサージュ)を出発点に、都市、商品、群衆、ファッション、博覧会を扱う。膨大な引用とメモの束として遺され、1982年に刊行された。
日本語では『複製技術時代の芸術作品』が入りやすい。分量が小さく、主張が明確である。
文学史における立ち位置と影響
ベンヤミンは、20世紀の文学批評と文化理論に最も広く参照される書き手の一人である。
生前の影響は限られていた。大学に職を得られず、著作の多くは断片のまま遺された。評価が確立したのは1950年代以降、アドルノらによる著作集の刊行を通じてである。
フランクフルト学派との関係は密接だが、正式な一員ではない。マルクス主義を土台に、社会と文化を批判的に分析したアドルノやホルクハイマーらの一群を指す。アドルノとは長く議論を交わし、しばしば方法の違いから対立した。ブレヒトとの交友も、アドルノからは理論の粗雑化として批判されている。
「アウラ」という概念は、芸術と複製をめぐる議論の共通語になった。写真、映画、そしてデジタル複製の時代の議論で、今も繰り返し参照される。
文学批評の方法としては、作品を社会の物質的条件から読むという方向を開いた。大衆文化を学問の対象として扱うカルチュラル・スタディーズ、メディア論、都市論のいずれもが、ベンヤミンを出発点の一つに挙げる。
ボードレール論も重要である。大都市を歩く遊歩者(フラヌール)という形象を通じて、19世紀の都市経験を分析した。この読み方が、以後のボードレール受容そのものを変えている。
日本では1960年代以降に紹介が進み、批評と思想の両方の領域で広く読まれている。