マックス・フリッシュ
- 原綴
- Max Frisch
- 生没
- 1911–1991
- 出身
- チューリヒ
- 国
- ドイツ
- 時代
- 戦後
生涯
1911年、チューリヒの建築家の家に生まれた。大学でドイツ文学を学び始めたが、父の死により中退し、記者として働いた。
1936年、建築を学び直すため工科大学へ入る。1940年に学位を得て、設計事務所を開いた。チューリヒの公営プールの設計コンペに勝ち、その建物は現存している。
第二次大戦中はスイス軍に召集され、国境警備に就いた。中立国から戦争を眺めるという位置が、以後の作品の背景にある。
戦後、ブレヒトがチューリヒに滞在した時期に交流した。この接触が劇作へ向かう契機になっている。
1954年の『シュティラー』の成功を受けて建築事務所を閉じ、作家専業になった。以後、ローマ、チューリヒ、ニューヨークに住んだ。
1958年から五年ほど、インゲボルク・バッハマンと関係を持った。この破局は双方の作品に反映されている。
スイスの社会に対する批判を続けた。中立の建前、外国人労働者の扱い、軍による市民の監視。1989年、当局が数十万人の市民を秘密裏に監視していたことが発覚した際、自分の記録を請求して『調書』として発表している。
1991年、大腸癌により79歳で死去した。
作風
フリッシュが繰り返し扱ったのは、人が他人の作った像に閉じ込められることである。
『あなたはあなた自身の像を作ってはならない』という聖書の句を、自らの主題として掲げた。誰かをこういう人間だと決めてしまうと、その人はもうそれ以外になれない。愛する相手に対してさえ、あるいは相手だからこそ、人はその像を押しつける。
『シュティラー』では、この問題が身元の否認という形をとる。ある男がスイスの国境で逮捕され、行方不明になっていた彫刻家シュティラーだと言われる。男はそれを否認し続ける。自分はシュティラーではない、というのが冒頭の一文である。周囲の人々は、彼が誰であるかを次々に語る。読者は最後まで真偽を確定できない。
日記の形式を好んだ。実際の日記も二冊刊行しており、そこには随想、旅行記、時事評論、短い虚構が混在する。書くという行為そのものを検証する態度が、作品と日記の両方に一貫している。
劇では寓話の形式をとる。『ビーダーマンと放火魔たち』は、放火魔だと分かっている男たちを家に泊め、燃料を運ばせ、最後にマッチを渡してしまう市民の話である。ナチズムを許した市民への諷刺として読まれてきた。
技術と偶然の対立も主題になる。『ホモ・ファーベル』の主人公は技術者で、統計と因果ですべてを説明できると信じている。その彼が、極めて低い確率でしか起きない事態に巻き込まれる。
作品
『シュティラー』(1954年)
最初の大きな成功作である。
『ホモ・ファーベル』(1957年)
代表作とされる。ユネスコの技術者ヴァルター・ファーバーは、飛行機の不時着から始まる偶然の連鎖のなかで、若い女性サベトと出会い、旅をともにし、関係を持つ。彼女は、かつて別れた恋人との間に生まれた自分の娘だった。サベトは事故で死ぬ。
『わが名はガンテンバイン』(1964年)
盲人を装う男の物語という体裁をとりながら、語り手が複数の可能性を次々に試していく構成をとる。
『ビーダーマンと放火魔たち』(1958年)と『アンドラ』(1961年)は代表的な戯曲である。後者は、ユダヤ人だと思い込まれた青年が、周囲の期待に沿って振る舞ううちに殺される話で、偏見が人を作る過程を扱う。
『モントーク』(1975年)
自身の恋愛と老いをそのまま書いた作品である。
『人間は完新世に現れる』(1979年)
山中で孤立した老人の記憶が失われていく過程を、切り抜きの引用を挟みながら書く。
日本語では『ホモ・ファーベル』が読みやすい。
文学史における立ち位置と影響
フリッシュは、デュレンマットと並んで戦後スイス文学を代表する。二人はドイツ語圏の演劇でも中心的な位置を占めた。
同一性の問題を扱った作家として、戦後ドイツ語文学の主要な系譜に置かれる。人が自分を何者と規定するか、他人からどう規定されるかという問いは、ナチス期を経たドイツ語圏で切実なものだった。
小説の形式においても実験的である。『わが名はガンテンバイン』は、確定した筋を持たず、可能性を並置する構成をとった。この方法は後の作家に影響している。
演劇ではブレヒトの影響下にある。寓話によって社会の構造を見せるという方法を共有しながら、フリッシュは解決を示さない。
スイスへの批判者としての位置も大きい。中立と繁栄の裏にあるものを問い続け、国民作家でありながら国家と緊張関係にあった。
日本では1960年代から翻訳が進み、『ホモ・ファーベル』は映画化とともに知られている。