フランス文学史 — 規則の制定と破壊の900年

フランス文学には、他の国と比べたときにはっきりした特徴が一つある。文学の中心が一箇所に集まっていることである。イギリス文学はロンドン・エディンバラ・ダブリンに分かれ、ドイツ文学は統一国家ができるまで宮廷ごとにばらばらだった。フランスでは、1635年に国家が言語を管理する機関を作って以来、何が正しいフランス語で何が正しい文学かを決める場所がパリに集中し続けている。があり、有力者の邸宅で開かれる文芸の集まり(サロン)があり、劇場があり、出版社があり、批評があり、文学賞がある。

この一極集中が、フランス文学の展開の形を決めている。中心があるので規則を定めることができ、規則があるので、次の世代はそれを壊すことを自分の仕事にできる。古典主義が演劇の規則を定め、ロマン主義が劇場で騒ぎを起こしてそれを壊す。写実主義が客観的な描写を確立し、象徴主義が意味そのものを溶かす。シュルレアリスムが自動記述で理性を捨て、ヌーヴォー・ロマンが物語を捨てる。

以下、六つの時代に分けて追う。全体の見取り図は次のようになる。

時代年代フランス史の区分文学に起きたこと代表作
中世1100〜1500年カペー朝・ヴァロワ朝声で語られる文学。武勲詩と宮廷風恋愛ローランの歌
16世紀1500〜1600年ルネサンス・宗教戦争ラテン語をやめ、フランス語で書くエセー ガルガンチュア
17世紀1600〜1700年ルイ13世・ルイ14世国家が言語と文学の規則を定めるフェードル タルチュフ
18世紀1700〜1800年啓蒙期・フランス革命文学が体制批判の手段になるカンディード 社会契約論
19世紀1800〜1900年帝政・王政復古・共和政規則の破壊と、小説による社会の記述ボヴァリー夫人 レ・ミゼラブル
20世紀以降1900年〜二つの大戦・戦後書くことそのものが主題になる失われた時を求めて 異邦人

フランス文学は、思潮(文学上の立場の呼び名)の交替として整理されることが多い。おもなものを時期順に並べると次のようになる。前の思潮への反発として次が出てくるため、並びがそのまま展開になっている。

思潮時期主な作家主張
古典主義17世紀ピエール・コルネイユ ジャン・ラシーヌ モリエール規則に従い、時代を超えて通じる人間の姿を描く
啓蒙思想18世紀ヴォルテール モンテスキュー ドゥニ・ディドロ理性によって制度と偏見を批判する
ロマン主義1820〜1840年代ヴィクトル・ユゴー アルフォンス・ド・ラマルティーヌ アルフレッド・ド・ミュッセ規則を捨て、感情と個人を前に出す
写実主義1850年代ギュスターヴ・フローベール書き手の判断を消し、現実を観察して書く
自然主義1870〜1890年代エミール・ゾラ ギ・ド・モーパッサン人間を遺伝と環境の産物とみて、実験のように書く
象徴主義1880〜1890年代ステファヌ・マラルメ ポール・ヴェルレーヌ アルチュール・ランボー意味を直接述べず、暗示によって喚び起こす
シュルレアリスム1920年代アンドレ・ブルトン ポール・エリュアール ルイ・アラゴン理性の統制を外し、無意識に現れるものを書く
実存主義1940年代ジャン=ポール・サルトル アルベール・カミュ シモーヌ・ド・ボーヴォワール意味のない世界で、選択によって自分を作る
ヌーヴォー・ロマン1950年代アラン・ロブ=グリエ ナタリー・サロート ミシェル・ビュトール筋と登場人物を捨て、物の描写を積み上げる

中世(1100〜1500年)— 声で語られた文学

現存するまとまったフランス語の文学で最も古いのが、11世紀末のローランの歌である。シャルルマーニュ(カール大帝)軍の後衛がピレネーの峠で全滅する話で、もとになった史実は778年にバスク人が輜重隊を襲った小さな事件だったと考えられている。それが三百年のあいだに、異教徒との戦いで英雄が壮烈に死ぬへ変形した。

この作品は、読まれるものではなく語られるものだった。ジョングルールと呼ばれる語り手が、楽器を伴って人前で歌う。同じ行の型が何度も繰り返され、決まり文句が頻出するのは、書き手の語彙が乏しいからではなく、声で覚えて声で伝えるための技術である。黙読すると単調に見えるが、それは前提としている場が違うためである。

12世紀に入ると、南フランスでがオック語で愛を歌いはじめる。手の届かない貴婦人に仕え、その苦しみ自体を洗練させるという型で、これを宮廷風恋愛と呼ぶ。型は北フランスへ渡り、クレチアン・ド・トロワの手でアーサー王の物語と結びついた。ランスロが王妃を愛し、騎士としての忠誠と個人の欲望が両立しなくなる。この対立の形は、ヨーロッパの恋愛の語り方をその後八百年にわたって規定することになる。

中世末の15世紀にヴィヨンが現れる。学生であり、盗みを働き、殺人事件に関わり、投獄され、死刑判決を受けて減刑され、そのまま消息を絶った人物である。定型詩の中に持ち込まれたのは、絞首台を前にした自分自身の声だった。書き手個人の生が詩に入ってくる点で、それまでの中世文学と切れている。

作品成立作者種類
ローランの歌1100年頃未詳武勲詩
『ランスロ、または荷車の騎士』1180年頃クレチアン・ド・トロワ韻文物語(アーサー王もの)
『薔薇物語』1230年頃/1275年頃ギヨーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン寓意詩
遺言の書1461年頃フランソワ・ヴィヨン遺言の形をとる詩集

16世紀(1500〜1600年/ルネサンス・宗教戦争)— フランス語で書くという選択

ルネサンスがイタリアから入ってくると、フランスの書き手は選択を迫られた。格の高い内容はラテン語で書くのが当然とされていた時代に、あえてフランス語で書くかどうかである。

ラブレーは医者であり修道士であり、ギリシャ語を読む人文主義者だった。その人物が巨人の親子の話を書いた。パンタグリュエルが1532年、ガルガンチュアが1534年。古典の学識と、下品きわまる冗談と、教育論と、修道院への皮肉が、区別なく同じ頁に同居している。高級な内容は高級な形式で、という前提そのものを笑いで解体している。

決定的だったのは1549年、デュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕揚』である。プレイヤード派という詩人集団の宣言文で、主張は明快だった。フランス語は貧しいのではない、鍛えられていないだけだ。ラテン語を捨て、古典を模倣しながらフランス語そのものを古典語の高さまで引き上げよ。ロンサールらがこれを実践し、14行の定型詩であるがフランスに定着する。

世紀の後半は宗教戦争で引き裂かれた。カトリックとプロテスタントの内戦で、1572年のサン・バルテルミの虐殺では、パリでプロテスタントが大量に殺されている。この内戦のさなかに、モンテーニュは塔にこもってエセーを書いた。1580年初版。主題は自分自身である。エセーという語はもともと「試み」を意味し、モンテーニュの用法がそのまま今日の「随想」の意味になった。結論を出さず、矛盾したまま並べ、自分が変われば書き足す。人が殺し合っている時代に、判断を保留することを一つの態度として示した書物である。

作品成立作者種類
パンタグリュエル1532年フランソワ・ラブレー物語
ガルガンチュア1534年フランソワ・ラブレー物語
『フランス語の擁護と顕揚』1549年ジョアシャン・デュ・ベレー宣言文
『恋愛詩集』1552年ピエール・ド・ロンサールソネット集
エセー1580年(初版)ミシェル・ド・モンテーニュ随想

17世紀(1600〜1700年/ルイ13世・ルイ14世)— 規則が作られる

1635年、宰相リシュリューがを設立する。言語を国家の管理下に置く機関で、これに相当するものはイギリスにもドイツにも生まれなかった。フランス文学の一極集中はここから始まる。

古典主義が確立するのもこの世紀である。演劇には三単一の規則が課された。筋は一つ、場所は一つ、時間は一日以内。窮屈に見えるが、当時の理解は逆だった。観客が信じられる嘘の範囲を限定すれば、その中で起きることの密度が上がる。制約が強度を生む、という考え方である。

規則の力は、コルネイユの『ル・シッド』が引き起こした論争に表れている。1637年に上演されて大成功したのだが、規則から外れているという批判を受け、アカデミーが公式に裁定を下した。作品の良し悪しを国家機関が判定する体制が、この時点で動いている。

同じ1637年、デカルトが『方法序説』をフランス語で書いた。哲学書はラテン語で書くものだったから、これも選択である。理由として、生まれつきの理性だけを使う人に読んでほしい、という趣旨を述べている。

規則の内側で最も高いところに達したのがラシーヌである。フェードルは1677年。義理の息子への恋を自覚した女が、それを言葉にした瞬間から破滅していく。動きはほとんどない。人が入ってきて、話し、出ていく。それだけで、三単一を守ったまま逃げ場のない密室ができあがる。

一方モリエールは、喜劇でこの体制に触れた。タルチュフは信心家の偽善を扱ったために上演禁止となり、解禁まで五年かかっている。規則が強いということは、それを破ったときに何が起きるかもはっきりしているということだった。

この世紀の散文は、人間の観察に向かった。ロシュフコーの『箴言集』は1665年で、美徳と見えるものはたいてい隠された自己愛である、という主題を短い断章で執拗に変奏する。パスカルパンセは死後の1670年に出た断片の集積で、信仰の書でありながら、人間の惨めさについての観察の鋭さで読み継がれてきた。そしてラファイエット夫人クレーヴの奥方が1678年。事件はほとんど起こらず、人物の心の中だけで話が進む。近代の心理小説の出発点とされる。

作品成立作者種類
『ル・シッド』1637年ピエール・コルネイユ悲喜劇
『方法序説』1637年ルネ・デカルト哲学(フランス語で執筆)
タルチュフ1664年モリエール喜劇
『箴言集』1665年ラ・ロシュフコー断章
『寓話』1668年〜ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ韻文の寓話
パンセ1670年ブレーズ・パスカル断章(死後刊)
フェードル1677年ジャン・ラシーヌ悲劇
クレーヴの奥方1678年ラファイエット夫人小説(心理小説の出発点)

18世紀(1700〜1800年/啓蒙期・フランス革命)— 文学が武器になる

18世紀に入ると、書くことの目的が変わる。文学が体制を批判する道具になった。

モンテスキューは1721年のペルシア人の手紙で、パリを訪れたペルシア人が本国へ書き送る手紙という形式を使った。外から見れば、自国の慣習はすべて奇習に見える。この距離の取り方は、以後くり返し使われる。

ヴォルテールは生涯を論争に費やした。1759年のカンディードは、この世は可能な世界の中で最善であるという楽天論を、主人公に次から次へと災難を浴びせることで潰していく。地震があり、拷問があり、戦争がある。軽い調子で書かれた短い話が、当時の思想的立場を一つ破壊した。

ディドロとダランベールが編んだ『百科全書』は、1751年から二十年以上かけて刊行された。あらゆる技術と知識を集める企てで、弾圧を受けながら続けられている。項目の配置と相互参照を使い、検閲を通しながら批判を潜り込ませた。

ルソーはこの流れの中にいながら、方向が違った。1762年の社会契約論は革命の理論的な源泉の一つになったが、同時に始めたのは別のことである。告白では、自分の恥ずべき部分まで含めて内面を全部書く、と宣言した。自分について書くことが文学の中心的な主題になりうるという考えは、ここから19世紀のロマン主義へ直接つながる。

世紀の末にラクロ危険な関係が出る。1782年。手紙だけで構成され、地の文がない。読者は登場人物の書いた手紙を読むしかなく、誰が嘘をついているかを自分で判断させられる。そして1789年、革命が起こる。

作品成立作者種類
ペルシア人の手紙1721年モンテスキュー書簡体小説
法の精神1748年モンテスキュー政治論
『百科全書』1751〜1772年ドゥニ・ディドロ・ダランベール編事典
カンディード1759年ヴォルテール哲学的な物語
社会契約論1762年ジャン=ジャック・ルソー政治論
エミール1762年ジャン=ジャック・ルソー教育論
危険な関係1782年ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ
『フィガロの結婚』1784年ボーマルシェ喜劇

19世紀(1800〜1900年/帝政・王政復古・共和政)— 規則が壊され、小説が世界を引き受ける

ロマン主義・写実主義・自然主義・象徴主義が、この百年のあいだに次々と現れる。作家の数でも影響の広さでも、フランス文学が最も厚みを持った世紀である。詳細は個別のページに譲り、ここでは流れだけを追う。

まず規則が壊された。1830年、ユゴーエルナニの初演が劇場での騒乱に発展する。古典主義の擁護者とロマン派の若者が客席で衝突し、上演のたびに繰り返された。演劇の規則をめぐる争いであると同時に、誰が文学を決めるのかをめぐる争いでもある。ロマン派が勝ち、三単一は死ぬ。

次に、小説が社会の記述を引き受ける。バルザックは自分の全作品を一つの体系として構想し、同じ人物を作品をまたいで再登場させることで、社会全体を一つの建物のように書こうとした。スタンダール赤と黒は1830年。野心を持った青年が階級の壁に突き当たる話で、以後この型はくり返し書かれる。サンドは女性の立場から結婚と自立を扱い、当時としては例外的に、男性名で発表しながら文壇の中心にいた。

そして、言葉が意味から離れはじめる。1857年に悪の華ボヴァリー夫人が同じ年に出て、どちらも公序良俗を理由に裁判にかけられた。前者は有罪、後者は無罪。フローベールは書き手の判断を文章から消すことを目指し、ボードレールは詩から教訓を消した。この延長線上にランボーマラルメが現れ、詩は意味を伝える道具であることをやめる。

ゾラは逆の方向へ進んだ。科学を模範にし、遺伝と環境が人間を決定する過程を実験のように書こうとする。ジェルミナールは1885年、炭鉱のストライキを扱っている。1898年にはドレフュス事件で、ユダヤ系の軍人が冤罪で流刑にされた件について軍と国家を告発する公開状を新聞に載せ、有罪判決を受けて亡命した。作家が実名で政治に介入する型が、ここで完成する。

20世紀以降(1900年〜/二つの大戦と戦後)— 書くことそのものが主題になる

20世紀の入口にプルーストがいる。失われた時を求めては1913年から、死後の1927年にかけて刊行された。主題は記憶であり、同時に、この本を書くに至る過程そのものである。語り手は最後に、自分が書くべき本を発見する。読者が読み終えた本がその本である、という円環になっている。

1914年からの戦争が価値を破壊すると、破壊のほうを引き受ける文学が出た。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は1924年で、理性の統制を外して自動的に書くという方法を示した。セリーヌは1932年の夜の果てへの旅で、話し言葉のリズムをそのまま文章に持ち込んでいる。ただし後年、反ユダヤ主義の文書を書いた。作品と書き手をどう切り分けるかという問題が、ここからフランス文学史に残る。

戦争と占領を経て、サルトルカミュの時代が来る。異邦人は1942年。母の葬儀で泣かなかった男が、殺人の裁判でそのことを咎められる。世界に意味はないという前提から出発して、それでもどう生きるかを問う型が、戦後の読者に受け入れられた。ボーヴォワール第二の性は1949年で、人は女に生まれるのではなく女になるのだ、という一文がその後のフェミニズムの出発点の一つになっている。

1950年代には、ロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマンが、今度は物語と登場人物を壊す。心理も筋も捨て、物の描写だけを積み上げる。同じ頃、ベケットゴドーを待ちながらを書いた。1952年刊、翌年初演。二人の男が誰かを待ち、来ないまま終わる。アイルランド生まれの作家がフランス語で書いた作品が、フランス演劇の代表作になっている。

以後の半世紀も、フランス文学は世界文学の中で一つの中心であり続けている。ペレックは特定の文字を使わないなどの規則を自分に課して書き、デュラスは同じ場面を反復する文体を作った。ノーベル文学賞はル・クレジオが2008年、モディアノが2014年、エルノーが2022年に受けている。エルノーが書いてきたのは自分の生であり、階級であり、中絶であり、母の死である。モンテーニュが四百年前に始めた、自分自身を素材にする方法が形を変えて続いている。