フランス通史

フランス文学史

フランス文学を通して見ると、他の国の文学史にはあまりない特徴が一つある。中心が一つしかないことである。

イギリス文学はロンドンとエディンバラとダブリンに分散し、ドイツ文学は統一国家ができるまで宮廷ごとにばらばらだった。フランスでは、十七世紀に国家が言語を管理する機関を作って以来、何が正しいフランス語で何が正しい文学かを決める場所がパリに集中し続けた。アカデミー・フランセーズがあり、サロンがあり、劇場があり、出版社があり、批評があり、文学賞がある。

この一極集中が、フランス文学に独特のリズムを与えている。中心があるから規則が作れる。そして規則があるから、次の世代はそれを壊すことを自分の仕事にできる。 古典主義が演劇の規則を定め、ロマン主義が劇場で暴動を起こしてそれを壊す。写実主義が客観的な描写を確立し、象徴主義が意味そのものを溶かす。シュルレアリストが自動記述で理性を捨て、ヌーヴォー・ロマンが今度は物語を捨てる。

フランス文学史は、この破壊と再建の往復として読むと筋が通る。以下、その往復を時代順に追う。

中世 — 声で語られた文学

現存する最初のまとまったフランス語文学は、十一世紀末のローランの歌である。シャルルマーニュ軍の後衛がピレネーの峠で全滅する話で、もとになった史実は七七八年にバスク人が輜重隊を襲った小さな事件だったと考えられている。それが三百年のあいだに、異教徒との聖戦で英雄が壮烈に死ぬ叙事詩に変形した。

重要なのは、これが読まれるものではなく、語られるものだったことである。ジョングルールと呼ばれる語り手が、楽器を伴って人前で歌った。同じ行の型が何度も繰り返され、決まり文句が頻出するのは、書き手の語彙が貧しいからではなく、声で覚えて声で伝えるための技術だった。この時期の文学を黙読すると単調に見えるが、それは前提としている場が違うためである。

十二世紀に入ると、南フランスでトルバドゥールがオック語で愛を歌いはじめる。手の届かない貴婦人に仕え、その苦しみ自体を洗練させるという型で、これが北へ渡ってクレチアン・ド・トロワの手でアーサー王物語と結びついた。ランスロが王妃を愛し、忠誠と欲望が両立しなくなる。宮廷風恋愛と呼ばれるこの型は、ヨーロッパの恋愛の語り方をその後八百年にわたって規定することになる。

中世末の十五世紀に、フランソワ・ヴィヨンが現れる。学生であり、盗みを働き、殺人事件に関わり、投獄され、死刑判決を受けて減刑され、そのまま消息を絶った男である。彼が定型詩の中に持ち込んだのは、絞首台を前にした自分自身の声だった。中世文学の非人称性がここで破れる。

16世紀 — フランス語で書くという選択

ルネサンスがイタリアから入ってくると、フランスの書き手は選択を迫られる。格の高いことを書くならラテン語で書くのが当然だった時代に、あえてフランス語で書くかどうかである。

フランソワ・ラブレーは医者であり修道士であり、ギリシア語を読む人文主義者だった。その彼が巨人の親子の話を書いた。『パンタグリュエル』が一五三二年、『ガルガンチュア』が一五三四年。古典の学識と、下品極まる冗談と、教育論と、修道院への皮肉が、区別なく同じ頁に同居している。高級な内容は高級な形式で、という前提そのものを笑いで解体している。

決定的だったのは一五四九年のジョアシャン・デュ・ベレー『フランス語の擁護と顕揚』である。これはプレイヤード派という詩人集団の宣言文で、主張は明快だった。フランス語は貧しいのではない、鍛えられていないだけだ。ラテン語を捨て、古典を模倣しながらフランス語そのものを古典語の高さまで引き上げよ。ピエール・ド・ロンサールらがこれを実践し、ソネットという形式がフランスに定着する。

世紀の後半は宗教戦争で引き裂かれた。一五七二年のサン・バルテルミの虐殺では、パリでプロテスタントが大量に殺されている。この内戦のさなかに、ミシェル・ド・モンテーニュは塔にこもってエセーを書いた。一五八〇年初版。主題は自分自身である。「私自身が私の書物の素材だ」と彼は書いた。エセーという語は「試み」を意味し、彼はこの語を今日の意味に変えてしまった。 結論を出さず、矛盾したまま並べ、自分が変わればそれも書き足す。人が殺し合っている時代に、判断を留保することを一つの態度として提示した。

17世紀 — 規則が作られる

一六三五年、宰相リシュリューがアカデミー・フランセーズを設立する。言語を国家の管理下に置く機関で、これに相当するものはイギリスにもドイツにも生まれなかった。 フランス文学の一極集中はここから始まる。

古典主義が確立するのはこの世紀である。演劇には三単一の規則が課された。筋は一つ、場所は一つ、時間は一日以内。窮屈に見えるが、当時の理解では逆だった。観客が信じられる嘘の範囲を限定すれば、その中で起きることの密度が上がる。制約が強度を生む、という考え方である。

規則の力はピエール・コルネイユの『ル・シッド』が引き起こした論争によく現れている。一六三七年に上演されて大成功したのだが、規則から外れているという批判を受け、アカデミーが公式に裁定を下した。作品の良し悪しを国家機関が判定する体制が、この時点で動いている。

同じ一六三七年、ルネ・デカルトが『方法序説』をフランス語で書いた。哲学書はラテン語で書くものだったから、これも選択だった。理由として彼は、生まれつきの理性だけを使う人に読んでほしい、という趣旨のことを述べている。

規則の内側で最も高いところに達したのがジャン・ラシーヌである。フェードルは一六七七年。義理の息子への恋を自覚した女が、それを言葉にした瞬間から破滅していく。動きはほとんどない。人が入ってきて、話し、出ていく。しかし三単一を守ったまま、逃げ場のない密室が出来上がっている。

一方モリエールは喜劇でこの体制に触れた。『タルチュフ』は信心家の偽善を扱ったために上演禁止となり、解禁まで五年かかっている。規則が強いということは、それを破ったときに何が起きるかもはっきりしているということだった。

この世紀の散文は、人間の観察に向かった。ラ・ロシュフコーの『箴言集』は一六六五年。美徳と見えるものはたいてい隠された自己愛である、という主題を短い断章で執拗に変奏する。ブレーズ・パスカルの『パンセ』は死後の一六七〇年に世に出た断片の集積で、信仰の書でありながら、人間の惨めさについての観察の鋭さで読み継がれている。そしてラファイエット夫人クレーヴの奥方が一六七八年。事件はほとんど起こらず、人物の心の中だけで話が進む。近代の心理小説はここから始まったとされる。

18世紀 — 文学が武器になる

十八世紀に入ると、書くことの目的が変わる。文学が体制を批判する道具になった。

モンテスキューは一七二一年の『ペルシア人の手紙』で、パリを訪れたペルシア人が本国に書き送る手紙という形式を使った。外から見れば、自国の慣習がすべて奇習に見える。この距離の取り方はその後繰り返し使われる。

ヴォルテールは生涯を論争に費やした。一七五九年のカンディードは、この世は可能な世界の中で最善であるという楽天論を、主人公に次から次へと災難を浴びせることで潰していく。地震があり、拷問があり、戦争がある。軽い調子で書かれた短い話が、当時の思想的立場を一つ破壊した。

ドゥニ・ディドロとダランベールが編んだ『百科全書』は一七五一年から二十年以上かけて刊行された。あらゆる技術と知識を集めるという企てで、弾圧を受けながら続けられた。項目の配置と相互参照を使って、検閲を通しながら批判を潜り込ませている。

ジャン=ジャック・ルソーはこの流れの中にいながら、方向が違った。一七六二年の『社会契約論』は革命の理論的な源泉の一つになったが、彼が同時に始めたのは別のことである。『告白』では、自分の恥ずべき部分まで含めて内面を全部書く、と宣言した。自分について書くことが文学の中心的な主題になりうる、という考えは、ここから十九世紀のロマン主義へ直接つながっていく。

世紀の末にはピエール・ショデルロ・ド・ラクロ危険な関係が出る。一七八二年。手紙だけで構成され、地の文がない。読者は登場人物の書いた手紙を読むしかなく、誰が嘘をついているかを自分で判断させられる。そして一七八九年、革命が起こる。

19世紀 — 規則が壊され、小説が世界を引き受ける

フランス文学が最も豊かだったのがこの世紀である。詳細は個別のページに譲るが、弧だけ描いておく。

まず規則が壊される。一八三〇年、ヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』初演が劇場での騒乱に発展した。古典主義の擁護者とロマン派の若者が客席で衝突し、上演のたびに繰り返された。これは演劇の規則をめぐる争いであると同時に、誰が文学を決めるのかをめぐる争いだった。ロマン派が勝ち、三単一は死ぬ。

次に小説が世界を引き受けるオノレ・ド・バルザックは自分の全作品を一つの体系として構想し、同じ人物を作品をまたいで再登場させて、社会全体を一つの建物として書こうとした。スタンダール赤と黒は一八三〇年。野心を持った青年が階級の壁に突き当たる話で、以後この型は繰り返し書かれる。

そして言葉が意味から離れはじめる。一八五七年、悪の華ボヴァリー夫人が同じ年に出て、どちらも公序良俗を理由に裁判にかけられた。前者は有罪、後者は無罪。ギュスターヴ・フローベールは書き手の判断を文章から消すことを目指し、シャルル・ボードレールは詩から教訓を消した。この延長線上にアルチュール・ランボーステファヌ・マラルメが現れ、詩は意味を伝える道具であることをやめる。

エミール・ゾラは逆方向へ進んだ。科学を模範にし、遺伝と環境が人間を決定する過程を実験のように書こうとした。ジェルミナールは一八八五年、炭鉱のストライキを扱っている。そして一八九八年、彼はドレフュス事件で軍と国家を告発する公開状を新聞に載せ、亡命することになる。文学者が政治に介入する型が、ここで完成した。

20世紀以降 — 書くことそのものが主題になる

二十世紀の入口にマルセル・プルーストがいる。失われた時を求めては一九一三年から死後の一九二七年にかけて刊行された。主題は記憶であり、同時に、この本を書くに至る過程そのものである。 語り手は最後に、自分が書くべき本を発見する。読者が読み終えた本がその本である、という円環になっている。

一九一四年からの戦争が価値を破壊すると、破壊のほうを引き受ける文学が出た。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は一九二四年。理性の統制を外して自動的に書く、という方法を提示した。ルイ=フェルディナン・セリーヌは一九三二年の『夜の果てへの旅』で、話し言葉のリズムをそのまま文章に持ち込んだ。ただし彼は後に反ユダヤ主義の文書を書いており、作品と書き手をどう切り分けるかという問題を、フランス文学史に残した。

戦争と占領を経て、ジャン=ポール・サルトルアルベール・カミュの時代が来る。異邦人は一九四二年。母の葬儀で泣かなかった男が、殺人の裁判でそのことを咎められる。世界に意味はないという前提から出発して、それでもどう生きるかを問う型が、戦後の読者に受け入れられた。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』は一九四九年で、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一文がその後のフェミニズムの出発点の一つになった。

一九五〇年代、アラン・ロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマンが今度は物語と登場人物を壊す。心理も筋も捨て、物の描写だけを積み上げる。同じ頃、サミュエル・ベケットゴドーを待ちながらを書いた。一九五二年刊、翌年初演。二人の男が誰かを待ち、来ないまま終わる。アイルランド人がフランス語で書いた作品が、フランス演劇の代表作になっている。

以後の半世紀、フランス文学は世界文学の中で一つの中心であり続けている。ジョルジュ・ペレックは文字の使用を制限する規則を自分に課して書き、マルグリット・デュラスは反復する文体を作った。ノーベル文学賞はJ・M・G・ル・クレジオが二〇〇八年、パトリック・モディアノが二〇一四年、アニー・エルノーが二〇二二年に受けている。エルノーが書いてきたのは自分の生であり、階級であり、中絶であり、母の死である。モンテーニュが四百年前に始めた「自分自身を素材にする」という方法が、形を変えて続いている。

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ここまでが弧の全体である。どこか一箇所に降りるなら、19世紀から読むのがいい。規則の破壊と、小説による世界の記述と、言葉の自律という三つが同時に起きていて、フランス文学の運動が最もよく見える時代である。

同じ年に他の国で何が書かれていたかを見るなら、横断年表へ。一八五七年に悪の華ボヴァリー夫人が出たとき、日本はまだ江戸時代だった。