エミール・ゾラ

- 原綴
- Émile Zola
- 生没
- 1840–1902
- 出身
- パリ
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
生涯
1840年、パリに生まれ、南仏エクス=アン=プロヴァンスで育った。父はイタリア出身の土木技師で、ゾラが7歳のときに死去する。一家は困窮し、母子でパリへ戻った。
大学入学資格試験に二度失敗し、進学を断念する。倉庫番などをした後、出版社アシェットに職を得た。宣伝担当として働きながら新聞に書評や時評を書き始め、文壇との接点はここでできている。エクスでの少年時代には、同級生に画家ポール・セザンヌがいた。長く親交が続いたが、後に決裂する。ゾラが画家を主人公にした小説『制作』で、才能に届かず自殺する人物を書いたことが原因とされる。
1871年、連作『ルーゴン・マッカール叢書』の第1巻を刊行し、以後22年かけて全20巻を書き上げた。1877年の居酒屋が大きな成功を収め、生活は安定する。
1898年、ドレフュス事件に介入した。ユダヤ人将校ドレフュスがドイツへの情報漏洩の罪で終身刑となったが、真犯人が別にいることが判明しても軍が誤りを認めなかった事件である。ゾラは新聞に大統領宛の公開状を発表し、軍の関係者を実名で告発した。名誉毀損で起訴されて有罪判決を受け、イギリスへ亡命して約1年を過ごしている。ドレフュスは後に恩赦を受け、1906年に無罪が確定した。
1902年、パリの自宅で一酸化炭素中毒により死去。62歳だった。煙突の詰まりが原因とされたが、当時の反ユダヤ主義者による殺人だったとする説が消えていない。
作風
ゾラは、小説を科学の手続きに近づけようとした。1880年の実験小説論で理論を述べている。医学者が動物を条件下に置いて反応を観察するように、小説家も人物を特定の環境に置き、何が起こるかを記述せよ、という主張である。作者の道徳的な判断は入れない。
前提として、人間は遺伝と環境で決まるという考えを採った。ある人物がアルコールに溺れるのは意志が弱いからではなく、遺伝的な素質と、置かれた労働条件と、住む場所の結果である、という書き方をする。『ルーゴン・マッカール叢書』は、この前提を体系にしたものである。一つの家族の5世代を追い、遺伝的な形質が世代ごとにどう現れるかを、20巻かけて追跡する構想をとった。各巻は独立して読めるが、人物は巻をまたいで再登場する。
取材の徹底も特徴である。ジェルミナールを書く前には炭鉱に降り、坑道を歩き、労働者から聞き取りをした。ジェルミナールの坑内描写、居酒屋の洗濯場、『ボヌール・デ・ダム百貨店』の売り場は、いずれも現地調査にもとづく。
労働者の話し言葉をそのまま地の文に持ち込んだ点も新しかった。『居酒屋』では俗語と隠語が多用され、上品な文体を期待した読者から強い反発を受けている。群衆を一つの塊として動かす場面も多い。ストライキの行進、市場の雑踏、鉱山の暴動と、個人ではなく集団が主役になる場面が繰り返し現れる。
作品
テレーズ・ラカン(1867年)
初期作である。夫を殺した妻と情夫が、罪の意識ではなく生理的な嫌悪によって壊れていく。心理ではなく「気質」で人間を説明する方法の最初の実験になっている。
居酒屋(1877年)
洗濯女ジェルヴェーズがアルコールと貧困に壊されていく話である。労働者の言語をそのまま書いたことで批判を浴びたが、商業的には最大の成功を収めた。
ナナ(1880年)
居酒屋のジェルヴェーズの娘が高級娼婦になり、上流社会の男たちを破滅させる話で、第二帝政の腐敗を描く。
ジェルミナール(Germinal)(1885年)
代表作とされる。北仏の炭鉱を舞台に、労働者のストライキとその失敗を書いた。坑内の描写と、群衆が一つの生き物のように動く場面が強く、労働運動を扱った小説の古典になっている。題は革命暦の「芽月」で、地下に埋もれた種が芽吹く含みを持つ。
実験小説論(1880年)
自然主義の理論書である。
「私は弾劾する(J'accuse…!)」(1898年)は新聞に載った公開状で、文学作品ではないが、この人物の名を最も広く知らしめた文章である。
文学史における立ち位置と影響
ゾラは自然主義を、理論と大規模な実作の両方で確立した。19世紀前半のバルザックは『人間喜劇』で社会全体を小説の体系に収めようとした。ゾラはその構想を引き継ぎ、そこに科学の方法を接ぎ木した。観察し、記録し、判断を差し控える。この態度は、以後の社会を扱う小説の基本になっている。
ただし理論の土台は今日支持されていない。遺伝が形質を決定するという当時の理解は科学として更新されており、作中の遺伝の図式も成り立たない。理論より作品のほうが強かった、というのが一般的な評価である。取材にもとづく描写と群衆の造形は、理論と切り離しても価値を保っている。
「作家が名声を賭けて政治的不正に介入する」という型を作った点も大きい。「私は弾劾する」以前にも政治的な発言をする文人はいたが、実名で権力を告発し、自らの有罪と亡命を引き受けた例は際立っている。20世紀のサルトルやカミュの社会的な振る舞いは、この型の上に立っている。
日本への影響は大きいが、受け取られ方が変形した。島崎藤村や田山花袋らの日本の自然主義は、「ありのままを書く」という部分だけを取り、対象を社会ではなく作者自身の身辺に絞った。そこから私小説が生まれる。同じ「自然主義」という名で呼ばれながら、社会の観察と作者の告白という、ほぼ逆の方向を指している。
1908年、遺骨がパンテオンに移された。ドレフュス事件での役割が、国家として評価された形になる。