フランソワ・ラブレー

- 原綴
- François Rabelais
- 生没
- 1483頃–1553
- 出身
- アンドル=エ=ロワール県シノン近郊
- 国
- フランス
- 時代
- 16世紀
生涯
ロワール地方の法律家の家に生まれた。生年は確定していない。
若い頃に修道院に入り、フランシスコ会からベネディクト会へ移った。修道院でギリシャ語を学んだが、当時の神学部はギリシャ語による聖書研究を危険視しており、蔵書を没収されている。この経験が、後年の神学者への皮肉と無関係ではない。
修道院を離れて医学を学び、モンペリエ大学で学位を取ってリヨンの病院に勤めた。当時としては珍しく、ガレノスの医学書をギリシャ語原典から校訂して出版している。の学者としての仕事である。
1532年、リヨンでパンタグリュエルを刊行した。「アルコフリバス・ナジエ」という筆名を使っている。これは本名のアナグラムで、内容が危険だという自覚があったことを示す。実際、著作は繰り返し弾劾された。パリ大学神学部が禁書と決定し、宗教改革をめぐる緊張が高まるなかで身の危険もあった。有力な庇護者(デュ・ベレー枢機卿)に仕えてイタリアへ随行するなど、保護を得ることで生き延びている。1553年、パリで死去した。晩年の消息には不明な点が多い。
作風
ラブレーは、高級な内容と下品な冗談を同じ頁に並べる。一つの章のなかに、古代ギリシャ哲学への言及、教育論、法律用語のもじり、そして排泄と酒と性の冗談が区別なく置かれる。これは無秩序ではなく攻撃である。高級な内容は高級な形式で書くという当時の前提そのものを、笑いによって壊している。
語彙の量が異常である。新語を大量に作り、方言、職業語、ラテン語、ギリシャ語を取り込んだ。同義語を延々と並べる列挙が頻出し、一つの事柄を数十語で言い換える。意味を伝えるためではなく、言葉の物量そのものを見せる書き方になっている。
巨人という設定が、この過剰さを可能にしている。主人公が巨大であれば、食べる量も飲む量も排泄も誇張できる。身体と物質の側から世界を書く態度が一貫している。
そのうえで、楽天的な人間観を提示する。ガルガンチュアのテレームの僧院では、規則がただ一つしかない。「汝の欲するところを行え」である。教育を受けた人間は本来善へ向かうのだから、規則で縛る必要がないという前提に立つ。ルネサンス前半の人間への信頼が、ここに最もはっきり出ている。
作品
パンタグリュエル(1532年)
最初の作品である。巨人パンタグリュエルの誕生、教育、遍歴を描き、当時流行していた騎士道物語のパロディの形をとる。
ガルガンチュア(1534年)
パンタグリュエルの父の物語で、時系列としては前の話にあたる。旧来のスコラ的な教育と、人文主義的な教育の対比が中心にあり、テレームの僧院の挿話を含む。
第三の書(1546年)以降は調子が変わる。結婚すべきかどうかを延々と論じ続ける構成で、初期の物語的な勢いより議論が前に出る。『第四の書』『第五の書』と続くが、第五の書の真作性には議論がある。
文学史における立ち位置と影響
ラブレーがフランス語で書いたことが、まず大きい。当時、格の高い内容はラテン語で書くのが常識だった。ラブレーはラテン語もギリシャ語も読める人文主義者でありながら、俗語で、しかも笑いとして書いた。二重の選択である。
フランス語の語彙も実際に広げた。ラブレーが作った語や、書き言葉に持ち込んだ方言が定着している。この点は、20年後にデュ・ベレーがフランス語の擁護を綱領として掲げる動きを、実作で先取りしている。
モンテーニュと並んで、16世紀フランス文学の二本柱とされる。ただし方向は対照的である。モンテーニュが自分の内側を静かに観察したのに対し、ラブレーは外へ向かって膨張する。「ラブレー的(rabelaisien)」という形容がフランス語に定着しており、過剰、猥雑、生命力の横溢を指す。
20世紀に評価が大きく変わった。ロシアの批評家ミハイル・バフチンが、この作家を「カーニヴァル」の概念で読み直したためである。中世の祭では、日常の身分秩序が一時的に転倒し、王が笑われ、下品なものが表に出る。ラブレーの過剰さは個人の趣味ではなく、民衆の笑いの文化がそのまま文学に入り込んだものだ、という読解である。この論はラブレー研究を超えて、文学理論に広く影響した。
日本では渡辺一夫が全訳を成し遂げた。この訳業は日本におけるフランス文学研究の記念碑とされ、大江健三郎は渡辺の弟子にあたる。大江が自作に持ち込んだグロテスクな身体表現は、ラブレー受容の系譜に位置づけられる。