悪の華

原題
Les Fleurs du mal
作者
シャルル・ボードレール
成立
1857
フランス
時代
19世紀

概要

1857年に刊行された詩集である。初版は約100篇、1861年の第二版は約150篇を収め、第二版が以後の定本になっている。都会の群衆、娼婦、酔漢、腐乱した死体といった、それまで詩の題材とされなかったものを扱う。刊行の二か月後に公序良俗を害するとして起訴され、6篇の削除と罰金を命じられた。フランス象徴主義の出発点とされる詩集である。

第二版は六つの部に分かれ、「憂鬱と理想」「パリ風景」「酒」「悪の華」「反抗」「死」と続く。理想を求めて挫折し、都市をさまよい、酒と悪徳に沈み、神に反抗し、最後に死へ向かうという流れがある。ただし一篇ずつ独立して読めるもので、通読を前提とする本ではない。よく知られた詩篇に、感覚どうしの対応を述べた「照応」、道端の死骸を克明に描いた「腐屍」、秩序と静けさのある土地への憧れを歌う「旅への誘い」、改造で姿を変えたパリをさまよう白鳥に故郷を失った者を重ねる「白鳥」などがある。

ボードレールは20代から詩を書きため、30代半ばで一冊にまとめた。1857年6月に刊行され、8月には検察が起訴している。当時のフランスでは、出版物が公序良俗を害すると判断されれば刑事責任を問われた。

判決は罰金と、6篇の削除だった。削除を命じられたのは、女性どうしの愛を主題にした詩が中心である。ボードレールは罰金の減額を願い出て、皇后の口添えで減額されている。

同じ1857年、フローベールボヴァリー夫人も同じ罪状で起訴され、こちらは無罪になった。散文で描かれた姦通は許され、詩が美と悪を結びつけることは許されない。当時なにが危険と見なされたかが、この対比に表れている。

1861年、削除分を補う形で35篇を加えた第二版が出た。このとき「パリ風景」の部が新たに設けられ、大改造の最中にあったパリの街が主題として加わっている。ボードレールはさらに増補を構想していたが、1867年に46歳で死去した。有罪判決が正式に破棄されるのは、その80年以上のちの1949年である。

文学史における評価と影響

それまでのフランス詩は、美しいもの高貴なものを主題にしてきた。ボードレールが持ち込んだのは、都会の群衆、娼婦、老女、酔漢、そして腐乱した死体である。「腐屍」では、道端の死骸に蛆が湧き、脚が痙攣するように動く様子を細かく描写したうえで、恋人に向かって、あなたもいずれこうなると告げる。詩に書いてよい題材の範囲が、この詩集で大きく広がった。

裁判で問われたのも、そこだった。詩は読者を善くするものだ、というのが当時の前提である。ボードレールの立場は逆で、美は善悪と関係なく成立する。悪や醜を描くのは、それが美になりうるからだ、という考えだった。詩を道徳の役目から切り離したことになる。この主張は、後に「芸術のための芸術」と呼ばれる立場へつながっていく。

方法の面で最も大きいのが「照応」である。この詩篇は、香りと色と音が互いに対応し合うと述べる。「香りには子供の肌のように爽やかなものがある」といった形で、本来は比べられない感覚どうしを結びつけた。そこから、目に見える世界は背後にある何かを指し示している、という考えが出てくる。詩の仕事は、事物を描写することではなく、その対応関係を見つけることになる。

この考えをヴェルレーヌランボーマラルメが受け継いだ。三人の向かった先はそれぞれ異なる。ヴェルレーヌは音楽性へ、ランボーは意味の破壊へ、マラルメは言語そのものの自立へ進んだ。だが詩が意味を伝える道具であることをやめていく点では共通しており、その転換は20世紀の詩と詩論の前提になっている。

近代の都市を主題にした最初期の詩集でもある。群衆のなかの孤独、通りすがりの女への一瞬の恋、工事で消えた風景。同時代のパリはオスマンによる大改造の最中にあり、街そのものが変わり続けていた。「白鳥」では、工事で姿を変えた街をさまよう白鳥に、亡命者や故郷を失った者が重ねられる。都市を詩の主題にする系譜は、ここから始まっている。20世紀にはベンヤミンが、この詩集を19世紀のパリを読み解く資料として論じた。

散文詩という形式の試みも、この詩人から始まっている。韻文の規則を外し、散文の姿のまま詩として書くもので、死後にパリの憂鬱として刊行された。定型を離れた詩へ向かう動きの早い一歩にあたる。

日本では上田敏が訳詩集『海潮音』(1905年)で紹介し、その後も永井荷風、堀口大學らが訳した。萩原朔太郎をはじめ、近代詩の書き手に広く影響している。

作者

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