マルセル・プルースト

- 原綴
- Marcel Proust
- 生没
- 1871–1922
- 出身
- パリ・オートゥイユ
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1871年、パリ西郊オートゥイユに生まれた。父は公衆衛生で国際的に知られた医師、母はユダヤ系の裕福な家の出である。母との結びつきが極端に強く、その関係は作品の中心的な主題にもなっている。
9歳で最初の喘息の発作を起こし、以後、死ぬまで喘息に苦しんだ。発作を避けるため外出を減らし、夜に起きて昼に眠る生活になり、最終的には壁にコルクを張った部屋にこもって書いている。音と埃を遮断するためである。
20代から30代は、社交界に出入りする文学青年として過ごした。1896年に最初の本を出したがほとんど黙殺され、次に着手した長篇は完成させずに放棄している。40歳近くまで、才能はあるが物にならない金持ちの息子と見なされていた。1903年に父、1905年に母が死ぬ。この二つの死の後、本格的な執筆が始まる。
1909年ごろから失われた時を求めてに取りかかった。1913年に第1篇スワン家のほうへを刊行するが、出版社に断られ続けた末の自費出版だった。断る判断に関わったジッドは、後にこれを自分の生涯最大の過ちとして詫びる手紙を書いている。
第一次大戦で刊行が中断する。この数年の間に作品は当初の構想をはるかに超えて膨張した。1919年、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』がゴンクール賞を受ける。評価が定まってからの時間は3年しかなかった。1922年、肺炎により51歳で死去。後半の篇は弟の手で刊行され、全7篇が揃うのは1927年である。したがって後半は、著者の最終的な推敲を経ていない。
作風
プルーストは、一つの意識を通して世界を書いた。19世紀の小説は、社会を外から描くか、語り手を消して出来事だけを置くかのどちらかだった。プルーストは社会そのものではなく、それが一人の心にどう映ったかを書く。同じ人物、同じ場所が、語り手の年齢と状況によって別物として現れる。
作品全体を支える仕掛けが「無意志的記憶」である。紅茶に浸したマドレーヌを口にした瞬間、忘れていた幼少期が丸ごと戻ってくる場面がある。重要なのは、思い出そうとして思い出したのではないという点である。意志で取り出せる記憶は痩せていて、当時の感覚を伴わない。偶然の感覚——味、匂い、足の下の敷石の傾き——が引き金になったときにだけ、過去が失われていない形で戻る。
一文が異常に長い。関係詞と挿入句が重なり、一文が1ページに及ぶこともある。これは装飾ではなく、一つの印象が変化していく過程を切らずに書くためである。文が終わるまで、その印象がどう変わったかが確定しない。
同じ人物の印象が作中で反転するのも特徴である。サロンで軽蔑されていた人物が、長い時間ののちに社交界の中心にいる。どちらが本当のその人かは書かれない。バルザックの人物再登場法と似た手法だが、バルザックでは人物が客観的に存在するのに対し、プルーストでは見るたびに違う人物になる。
作品
失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)(1913〜27年)
唯一の主要作である。全7篇。語り手が幼少期から中年までを回想する形をとる。田舎町コンブレーでの子供時代、社交界への出入り、恋愛と嫉妬、第一次大戦を経た社交界の変貌。筋らしい筋はなく、意識が過去を辿る運動そのものが内容になっている。円環構造をとり、最終篇で語り手は、いま読者が読み終えつつあるこの本を書こうと決意する。終わりが始まりに繋がる形であり、これを先に知っておくと全体が把握しやすい。
スワン家のほうへ(Du côté de chez Swann)(1913年)
第1篇で、マドレーヌの場面を含む。第二部「スワンの恋」は、語り手が生まれる前の話で、一人の男が嫉妬で壊れていく過程だけを書いた独立した中篇として読める。三人称で書かれ、文体も比較的追いやすい。
サント=ブーヴに反論する(1954年、死後刊行)
1908年ごろに書かれて未完に終わった評論で、失われた時を求めての理論的な出発点にあたる。
読み始め方についても触れておく。失われた時を求めては挫折率が高い本として知られる。スワン家のほうへの冒頭は、男が寝つけずにいる場面が数十ページ続き、事件は起こらない。そして、この冒頭が作品全体で最も難しい部分である。入り方は三つある。第一に、第一部「コンブレー」を、冒頭は分からなくてよいと割り切って通過する方法。マドレーヌの場面まで来れば景色が変わる。第二に、第二部「スワンの恋」を独立した中篇として先に読み、面白ければ第一部へ戻る方法。第三に、抄訳で全体の構造を先に掴んでから全訳に進む方法である。
日本語には複数の全訳がある。どれが正しいという問題ではなく、何を優先するかで選ぶ。固有名詞や当時の社交界の常識に注の支えが欲しい場合はこちら。
日本語としての読みやすさを優先する場合はこちら。
抄訳で構造を掴んでから全訳に進みたい場合はこちら。
文学史における立ち位置と影響
プルーストの失われた時を求めては、19世紀の心理小説の完成であり、同時に20世紀の起点にあたる。バルザックが社会を外から書き、フローベールが語り手を消したのに対し、プルーストは社会を一人の意識の内側に取り込んだ。心理を書くという19世紀の方向を極限まで進めた結果、書かれるものが社会から意識へ移っている。
批評史における位置も大きく、その中心にあるのがサント=ブーヴに反論するの主張である。19世紀の大批評家サント=ブーヴは、作品を理解するには作者の人となりを知れと説いた。手紙を読み、証言を集め、人物像から作品を説明する。当時これは常識だった。プルーストは、書く自我は社交的な自我とは別物だと反論する。友人に見せている顔から作品は出てこない、したがって伝記から作品を説明するのは方法として誤っている、という論理である。
この主張は、20世紀の批評が向かった方向を先取りしている。作品を作者から切り離して読む方法は、後にロラン・バルトが「作者の死」として極端な形にまで進めた。プルーストはその半世紀前に、小説家の側からこれを言っていたことになる。皮肉なのは、この作家ほど自分の人生を材料にした人もいないことである。材料が人生でないと言っているのではなく、作品を人生に還元して説明するな、という主張になっている。
直接の影響も広い。ベケットは1931年に『プルースト』という評論を書いており、これが出発点の一つになっている。サロートやロブ=グリエのヌーヴォー・ロマンは、心理を書くことへの批判としてプルーストを乗り越えようとした。乗り越える対象として設定されること自体が、影響の大きさを示している。
1922年という年も注目される。同じ年にジョイスのユリシーズが刊行された。意識の流れという方法が、示し合わせたわけでもなく別の場所で同時期に現れている。