ジャン・ラシーヌ

長い巻き毛のかつらをつけたジャン・ラシーヌの銅版画の肖像。
原綴
Jean Racine
生没
1639–1699
出身
エーヌ県ラ・フェルテ=ミロン
フランス
時代
17世紀

生涯

1639年、パリ北東の小さな町に生まれた。3歳までに両親を失い、祖母に引き取られる。

祖母が身を寄せていたのがポール=ロワイヤル修道院だった。ここはジャンセニスムの拠点である。人間は生まれつき罪深く、自力では救われず、神の恩寵によってしか救済されないと説く厳格な立場をとる。ラシーヌはここで無償の高度な教育を受け、ギリシャ語とラテン語の古典を原典で読んだ。この教育は二つの意味を持つ。古代ギリシャ悲劇を直接読めたこと、そして、人間は自分の情念に抗えないという人間観を早くから内面化したことである。後年の作品はこの前提の上に立っている。

しかし演劇は、ジャンセニスムが最も敵視するものだった。ラシーヌが劇作家になったことで、育ての親たちとの関係は断絶する。恩師の一人と公開の書簡で論争し、激しい言葉を投げつけた。

1667年のアンドロマックで成功し、以後10年ほどで主要作を書く。この時期、先輩格のコルネイユと競合し、意図的に同じ題材を扱って対決したこともある。1677年には、フェードルの初演をめぐって妨害工作を受けた。対立する一派が同じ題材の劇を同時期にぶつけ、桟敷席を買い占めるなどして興行を潰そうとしたのである。

この直後、38歳で劇作から退いた。国王付きの修史官という名誉職に就き、ジャンセニスムの側とも和解している。退いた理由は確定していない。妨害への嫌気、宗教的な悔恨、宮廷での地位の獲得など複数の説がある。その後、王妃の依頼で宗教劇を2作書いた。1699年、59歳で死去。遺言によりポール=ロワイヤルに埋葬された。

作風

ラシーヌは、厳しい規則の内側で密度を上げる。17世紀フランスの演劇には「三一致の法則」があった。筋は一つ、場所は一つ、時間は一日以内。窮屈な制約に見えるが、ラシーヌはこれを逆手に取っている。逃げ場のない一室に人物を閉じ込め、24時間で破局まで進める装置として使った。

事件はほとんど起きない。人が入ってきて、話し、出ていく。戦闘も殺人も舞台では起きず、報告として語られるだけである。動きがない代わりに、言葉の圧力だけで進む。

語彙も極端に少ない。日常的な語を排し、限られた高雅な語だけで書く。使用語彙は2000語程度とされる。貧しい素材で最大の効果を出すという方向であり、これも制約を強度に変える発想である。

人物は情念に負ける。これがラシーヌの人間観の中心にある。フェードルでは、王妃パイドラが義理の息子への恋を自覚する。彼女はそれが許されないと知っており、抵抗する。だが抵抗しきれず、口に出してしまい、そこから破局が始まる。意志の力で自分を制御できないというこの前提は、ポール=ロワイヤルで学んだ人間観と重なる。

作品

アンドロマック(1667年)

出世作である。トロイア陥落後、敵将の妻アンドロマックをめぐって、愛が一方向に連鎖する。AがBを愛し、BがCを愛し、CがDを愛す。誰も報われない構造が、そのまま破局に至る。

ブリタニキュス(1669年)

若い皇帝ネロが母の支配を脱して暴君になっていく過程を描く政治悲劇である。

ベレニス(1670年)

ローマ皇帝が異国の女王を愛しながら、国のために別れる話である。事件らしい事件が何も起きない。別れるという一点だけで五幕を持たせており、ラシーヌの方法が最も極端に出た作品とされる。

フェードル(Phèdre)(1677年)

代表作で、エウリピデスの『ヒッポリュトス』を下敷きにする。

エステル(1689年)とアタリー(1691年)は、劇作を離れた後に書いた宗教劇である。聖書に取材し、王妃の設立した女子学校の生徒が上演するために書かれた。

文学史における立ち位置と影響

ラシーヌはフランス古典主義悲劇の到達点とされ、コルネイユと対比されることが多い。

人間をどう見るか
ピエール・コルネイユ意志によって義務を選び取る。人間は自分を超えられる
ラシーヌ情念に抗えない。人間は自分を超えられない

この違いは世代の違いでもある。コルネイユの英雄的な人間像が支持された時代の後に、ラシーヌの悲観的な人間像が来ている。

三一致の法則の評価も、この作家の存在と結びついている。規則は窮屈だが、観客が受け入れる嘘の範囲を限定すれば、その中で起きることの密度が上がる。フェードルはその最も成功した例であり、規則を擁護する側が必ず引く作品になっている。

同時代のイギリスには、この規則がなかった。シェイクスピアは何年もの時間を飛ばし、国をまたぎ、悲劇に道化を出す。同じ17世紀の演劇が、海峡をはさんで正反対の原理で動いていたことになる。18世紀以降、この対立は「規則か自由か」という論争の形をとり、ユゴーらロマン主義がフランス側の規則を打ち倒すまで続いた。

フランス語の韻文の完成形としても扱われる。アレクサンドラン(12音節詩行)の扱いにおいて、以後の詩人が基準とする水準を示した。

翻訳が難しい作家としても知られる。事件ではなく言葉の密度に価値があるため、訳すと骨組みだけが残りやすい。英語圏でシェイクスピアほど上演されないのは、この事情によると説明されることが多い。

作品

関連する文芸思潮・文学運動

登場する文学史