ギュスターヴ・フローベール

- 原綴
- Gustave Flaubert
- 生没
- 1821–1880
- 出身
- セーヌ=マリティーム県ルーアン
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
生涯
1821年、北仏ルーアンの市立病院で生まれた。父は外科部長で、一家は病院の敷地内に住んでいる。遺体解剖を身近に見て育った環境は、後年の冷静な観察の文体と結びつけて語られることが多い。
パリで法律を学び始めるが、22歳のとき発作を起こして倒れた。てんかんとみられ、以後は激しい活動を避ける生活になる。この病気のために職業に就かず、父の遺産で暮らしながら書くことに専念できた。ルーアン近郊クロワッセの家にこもり、生涯の大半をそこで過ごしている。1日に数行しか進まないこともあったという。文を声に出して読み、調子が悪ければ書き直す作業を延々と繰り返した。1849年から2年間は友人と中東を旅し、エジプト、パレスチナ、トルコ、ギリシャを回った。この旅の見聞は後にサランボーなどの素材になる。
1856年、ボヴァリー夫人を雑誌に連載した。翌1857年、公序良俗を害するとして起訴される。姦通を描きながら罰していないことが問題とされたが、判決は無罪だった。同じ年、ボードレールの悪の華も同じ罪状で起訴され、こちらは有罪になっている。
裁判は宣伝になり、単行本は成功した。だがそれ以降の作品は評価が伸びない。晩年は姪の夫の事業破綻を助けて財産を失い、経済的に苦しんだ。1880年、脳出血により58歳で死去した。
ジョルジュ・サンドとの往復書簡が残っている。方法も思想も正反対の二人が、互いを尊重して議論を続けた記録として、19世紀文学の資料になっている。
作風
フローベールは、作者を作品から消そうとした。書簡に、作者は作品の中に神のようにいなければならない、どこにでもいて、どこにも見えない、という趣旨を書いている。
それまでの小説では、語り手が前に出て人物を評価した。「この愚かな娘は」「読者諸君はお気づきだろうが」といった書き方である。フローベールはこれをやめた。出来事と人物の言動だけを置き、判断を読者に委ねる。
技術的な中心が自由間接話法である。地の文でありながら、登場人物の心の声が混ざる書き方を指す。たとえばボヴァリー夫人では、エンマが恋愛に憧れる場面が、地の文のままエンマ自身の言葉づかいで書かれる。それが語り手の見解なのか、エンマの思い込みなのかが示されない。読者は文体の調子から、それが陳腐な憧れだと判断することになるが、作者は一言もそう書いていない。この宙吊りが裁判の争点になった。姦通を描きながら断罪していない。検事はそこを衝き、弁護側は作品全体が悪徳の帰結を示していると主張した。
もう一つの特徴が細部の物量である。室内の家具、服の質感、農業共進会の喧騒。物語の進行に不要な描写が延々と続く。「正確な言葉(le mot juste)」を探して推敲を重ねた結果であり、対象を選び抜いた一語で捉えることを目指した。
作品
ボヴァリー夫人(Madame Bovary)(1857年)
代表作である。田舎医師と結婚した女性エンマが、少女期に読んだ恋愛小説のような生活を求めて不倫と浪費を重ね、借金に追い詰められて服毒する。筋そのものは通俗的だが、扱い方が新しかった。悲劇の主人公として書かれておらず、憧れの内容がどれも借り物であることが、本人の言葉づかいから読み取れるように書かれている。
サランボー(1862年)
古代カルタゴを舞台にした長篇である。傭兵の反乱と、神殿の娘サランボーを扱う。膨大な考証にもとづく異国趣味の作品であり、同時代の風俗を扱うボヴァリー夫人とは対極にある。
感情教育(1869年)
1848年、王政が倒れて共和政に変わった二月革命を背景に、青年フレデリックが恋にも政治にも関わりながら、何一つ成し遂げないまま年を取る話である。盛り上がる場面が意図的に外されている。革命の決定的な日、主人公は恋人と会っている。当時は失敗作と受け取られたが、20世紀に評価が大きく上がった。
三つの物語(1877年)
短篇集である。「純な心」は、一生を女中として過ごした女が、飼っていた鸚鵡を神の似姿と重ねて死んでいく話で、短く入門に向く。
ブヴァールとペキュシェ(1881年、未完)
退職した二人の筆耕があらゆる学問を順に試して失敗し続ける話である。人間の愚かさの集積を書こうとした試みで、未完のまま残った。
文学史における立ち位置と影響
フローベールは近代小説の技術的な到達点とされる。19世紀前半のバルザックは、語り手を前に出して社会を説明した。フローベールはその語り手を消した。誰の視点で書かれているかを固定せず、判断を書かず、読者に組み立てさせる。この方法は以後の小説の標準になり、今日「小説らしい書き方」と感じられるものの多くがここに由来する。
自由間接話法そのものはフローベールの発明ではないが、小説全体をこの技法で構成したのはフローベールが最初期である。プルースト、ジョイスをはじめ20世紀の作家が方法として受け継いだ。
「作品を書く」という仕事の性格も変えた。1日数行の推敲、正確な言葉の探索、職業を持たず書くことだけに集中する生活。芸術家としての作家という像が、この人のところで一つの形になっている。
写実主義の代表とされるが、本人はそのラベルを嫌ったという。現実をそのまま写すことではなく、文体の完成を目指していたためである。
1857年の二つの裁判は、19世紀フランス文学を象徴する事件として繰り返し語られる。散文で描かれた姦通は無罪、詩が美と悪を結びつけることは有罪。何が危険と見なされたかが、この対比に表れている。
日本では森鷗外以降に紹介され、自然主義の作家たちが手本にした。ただし日本の自然主義は「事実をありのままに書く」という部分だけを受け取り、作者を消すという方法論は十分に継承されなかった、という指摘がある。