ミシェル・ド・モンテーニュ

- 原綴
- Michel de Montaigne
- 生没
- 1533–1592
- 出身
- ジロンド県モンテーニュ城(ボルドー近郊)
- 国
- フランス
- 時代
- 16世紀
生涯
1533年、ボルドー近郊の領主の家に生まれた。父は商人から爵位を買った家系で、貴族としては新しい。母はスペイン系ユダヤ人の改宗者の家の出とされる。
父の教育方針は徹底していた。生まれてすぐ農民の家に預けて庶民の暮らしを知らせ、戻ってからはラテン語だけで話す家庭教師をつけた。家族も使用人もラテン語で話しかけたため、フランス語より先にラテン語を覚えたという。
法律を学び、ボルドー高等法院の法官になった。ここでエティエンヌ・ド・ラ・ボエシと出会い、深い友情を結ぶが、ラ・ボエシは1563年に病死する。この喪失は生涯の傷として残り、後に友情を論じた章が書かれた。「なぜ彼を愛したのか」と問われて「彼が彼であり、私が私だったから」と答えた一句が知られる。
1570年、37歳で公職を退いた。城の塔にある書斎にこもり、梁に古典の箴言を刻ませて、そこで読み書きする生活に入る。翌年からエセーの執筆が始まった。ただし完全な隠遁者ではない。1581年から4年間、ボルドー市長を二期務めている。宗教戦争のさなかで、カトリックとプロテスタントの調停にあたった。カトリックでありながら、プロテスタント側の指導者ナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)とも交渉を持っている。
1580年にエセー初版を刊行し、以後、死ぬまで書き足し続けた。1592年、59歳で死去した。
作風
モンテーニュは、自分自身を主題にした。冒頭近くに「私自身が私の書物の素材だ」と断っている。当時、自分について書くことは正当な文章の目的ではなかった。神学か、古典の注釈か、歴史か、詩。そのいずれでもないものを書いたことになる。
結論を出さないのも特徴である。ある主張を述べ、反対の例を並べ、判断を保留したまま次へ移る。「私は何を知っているか(Que sais-je ?)」という問いを座右銘にした。断定しないこと自体を、一つの態度として提示している。
書き直さずに書き足す方法をとった。初版の記述を消さず、そこへ後年の考えを挿入していく。結果として、同じ章のなかに矛盾する見解が並んで残る。20年前の自分と現在の自分が同じ紙面にいることになり、考えが変わっていく過程がそのまま可視化されている。
書き方は具体的である。抽象論を展開せず、自分の体調、食事の好み、旅先で見たこと、腎臓結石の痛みを書く。「食人種について」の章では、ブラジルから連れてこられた先住民に実際に会った経験から論を起こしている。その風習を野蛮と呼ぶ前に、宗教戦争で同胞を生きたまま切り刻んでいる自分たちはどうなのか、と問う。
古典の引用も大量に入る。セネカ、プルタルコス、キケロ。ただし権威として引くのではなく、自分の経験と突き合わせる材料として使う。
作品
エセー(Les Essais)(1580年初版、以後増補)
唯一の著作である。全3巻、107章。
「エセー」はもともと「試み」を意味する語だった。完成した論ではなく、考えてみること自体を指す。この語が今日の「随筆」の意味を持つようになったのは、この本による。
章の長さは一定しない。1ページで終わるものもあれば、100ページを超えるものもある。題と中身が一致しない章も多い。「馬車について」と題した章がアメリカ大陸の征服を論じるなど、話が流れるままに書かれている。主な章に、「友情について」(ラ・ボエシの追悼)、「子供の教育について」、「食人種について」、「レーモン・スボンの弁護」(懐疑論の中心)、「経験について」(最終章)がある。
文学史における立ち位置と影響
モンテーニュは「自分について書く」という文学の系譜の起点にあたる。それまで自分を書いた文章としてはアウグスティヌスの『告白』があるが、あれは神への告白であり、回心へ向かう構成を持つ。モンテーニュには到達すべき地点がない。ただ自分を観察し、変わっていく様子を記録する。この系譜は200年後のルソー『告白』へ、さらに19世紀のロマン主義、20世紀のプルーストやエルノーへと伸びていく。フランス文学が自分自身を素材にし続ける傾向の出発点として位置づけられる。
「エセー」という形式そのものを作った点も大きい。イギリスではベーコンが1597年に『随想録』を出し、この形式を英語圏に持ち込んだ。ただしベーコンのそれは簡潔な箴言集で、モンテーニュのような自己観察は含まない。形式の名前だけが移り、中身は変わっている。
懐疑の態度は、書かれた状況と結びついている。執筆期はフランス宗教戦争の最中で、1572年のサン・バルテルミの虐殺——パリでカトリック側がプロテスタントを一夜のうちに大量に殺害した事件——をはじめ、信仰の名のもとに隣人が殺されていた。自分が正しいと確信した者が隣人を殺していた時期に、判断を保留することを説いたことになる。市長として両派を調停した実践も、この態度と繋がっている。
後世の読者が異常に多い。シェイクスピアは英訳を読んでおり、『テンペスト』に「食人種について」からの借用が指摘されている。パスカルは激しく批判しながら大量に引用し、ニーチェや20世紀の思想家も繰り返し参照した。
日本では関根秀雄、荒木昭太郎、宮下志朗らの訳がある。