アルチュール・ランボー

髪を乱し、蝶タイを結んだ少年時代のアルチュール・ランボーの肖像写真。
エティエンヌ・カルジャ撮影(1872年)
原綴
Arthur Rimbaud
生没
1854–1891
出身
アルデンヌ県シャルルヴィル
フランス
時代
19世紀

生涯

1854年、ベルギー国境に近い地方都市シャルルヴィルに生まれた。父は陸軍将校で、早くに家を出て戻らない。母は厳格な人で、子供たちを強く管理した。

学業は際立って優秀だった。ラテン語詩のコンクールで賞を取り、教師が将来を期待している。同時に、家と土地から出たいという欲求が強く、15歳から16歳にかけて何度も家出してパリやベルギーへ向かい、そのたびに連れ戻された。

1871年9月、16歳のとき、パリの詩人ポール・ヴェルレーヌに自作の詩を同封した手紙を送る。ヴェルレーヌは当時27歳で、すでに詩集を出していた。才能を認めた返事が来て、ランボーはパリへ出た。二人は関係を持ち、ヴェルレーヌは妻と生まれたばかりの息子を捨てて、ランボーとロンドンやブリュッセルを転々とする。収入はなく、関係は依存と衝突を繰り返した。1873年7月、ブリュッセルでランボーが別れを告げると、ヴェルレーヌは拳銃を買って二発撃ち、一発がランボーの手首に当たった。ヴェルレーヌは禁錮2年の判決を受けている。

事件の直後、ランボーは実家に戻って地獄の季節を書き上げ、自費で刊行した。ほとんど売れなかった。

そして20歳前後で詩を書くのをやめる。以後は文学と一切関わらない。ヨーロッパ各地を歩き回った後、キプロス、エジプトを経てエチオピア(当時のアビシニア)に渡り、コーヒーや武器を扱う商人として10年あまりを過ごした。この間、パリでは自分の詩が評価され始めていたが、本人はほとんど関心を示していない。1891年、右膝の腫瘍のためマルセイユに帰り、脚を切断したが、同年11月に37歳で死去した。

作風

ランボーの詩論は、1871年に教師と友人へ宛てた2通の手紙にある。「見者(ヴォワイヤン)の手紙」と呼ばれるものである。

主張はこうである。詩人はあらゆる感覚を意識的に錯乱させることで、常人には見えないものを見る者になる。そのために自分を痛めつけ、狂気や毒物も辞さない。詩は自己表現ではなく、未知に到達するための手段になる。同じ手紙に「私とは一個の他者である」という一文がある。考えているのは自分ではなく、自分を通して何かが考えている、という言い方で、詩人が自分の主人ではないという立場を示している。

作風は5年のうちに急速に変わった。初期の「酔いどれ船(Le Bateau ivre)」(1871年)は、まだ定型の韻文である。船が自ら語る形をとり、大洋を漂ううちに見た光景を並べていく。ただし比喩の飛躍が大きく、実際には海を見たことがない17歳が書いている。

後期の『イリュミナシオン(Illuminations)』になると、韻文をやめて散文詩に移り、文と文のつながりが断たれる。「私は夏の暁を抱きしめた」といった一文の後に、脈絡なく別の情景が置かれる。誰が語り、どこの話で、何が起きたのかが示されない。意味を追って読むと行き詰まる書き方である。

作品

「酔いどれ船(Le Bateau ivre)」(1871年)は初期の代表的な詩篇である。100行の韻文で、繋ぎを失った船が海を漂う。

地獄の季節(Une saison en enfer)(1873年)

生前に自ら刊行した唯一の作品である。散文と韻文が混ざり、地獄めぐりの形式を借りて、自分の過去と詩の試みを総括する。「かつて、私の記憶が確かならば」と始まり、見者の詩論への訣別とも読める記述が含まれる。ヴェルレーヌとの関係を思わせる箇所もある。

イリュミナシオン(1886年刊)

散文詩集である。書かれた時期は特定されていないが、多くは1873年から75年ごろとみられる。ランボー本人は刊行に関与していない。原稿はヴェルレーヌの手を経て雑誌に発表され、単行本になった。この時ランボーはアフリカにおり、自分の詩集が出たことを知らなかった可能性が高い。

文学史における立ち位置と影響

ランボーの最大の功績は、詩の言語を、意味を伝える道具から切り離したことである。

19世紀後半のフランスには、事物をそのまま描写するのではなく暗示によって心の状態を喚起しようとする象徴主義という動きがあった。ランボーはその系譜のなかで最も過激な地点に立つ。イリュミナシオンでは、統辞も文脈も断たれたイメージが並び、読者は意味を再構成できない。「詩は何かを言うためのものだ」という前提そのものが外されている。この方向は、語の配置と構文の実験を進めた同時代の詩人マラルメと合流し、20世紀の詩の出発点になった。

20世紀に入って評価が急上昇する。とくに1920年代のシュルレアリスム——理性の統制を外して無意識を書こうとした運動——が、ランボーを先駆として掲げた。感覚の錯乱という詩論が、彼らの方法と直接つながっている。

若くして書き、突然やめて商人になったという生涯そのものも伝説化した。ヴェルレーヌが評論呪われた詩人たち(1884年)でランボーを論じたとき、本人はすでにアフリカにいる。作品が本人の不在のまま独り歩きした形になり、「早熟の天才が文学を見限った」という像が広く流通した。

なぜ詩を捨てたのかについては定説がない。詩論の破綻を自覚したという読み方、単に金が必要だったという見方、はじめから文学を一時期の仕事としか考えていなかったという説がある。本人が説明を残していないため、断定はできない。

日本での受容も早く、小林秀雄中原中也が訳し、論じた。とくに中原は詩と生涯の両面で強い影響を受けている。

作品

関連する文芸思潮・文学運動

登場する文学史