モンテスキュー

- 原綴
- Montesquieu
- 生没
- 1689–1755
- 出身
- ジロンド県ラ・ブレード(ボルドー近郊)
- 国
- フランス
- 時代
- 18世紀
生涯
1689年、ボルドー近郊の貴族の家に生まれた。法官の家系であり、本人もボルドー高等法院の裁判官、後に院長を務めている。
1721年、匿名でペルシア人の手紙を発表して成功した。これを機に文筆へ傾き、やがて裁判官の職を売却して研究に専念する。当時、官職は財産として売買できた。
ヨーロッパ各地を旅し、とくにイギリスに2年近く滞在した。立憲君主制と、権力が分かれている政体を実見したこの経験が、法の精神の基礎になる。1748年、20年をかけた法の精神を刊行した。ローマ教皇庁の禁書目録に入れられたが、版を重ねている。1755年、パリで66歳で死去した。
作風
モンテスキューは「外国人の目」を批判の道具として使った。ペルシア人の手紙は、パリを訪れた二人のペルシア人が本国へ書き送る手紙という形式をとる。彼らはフランスの習慣に驚く。なぜ王は紙切れ(紙幣)を金と言い張るのか。なぜ人々は教皇という男の言うことを聞くのか。
この「なぜ」が効く。自明とされているものを、知らない人の視点から見ると、不合理として見えてくる。直接批判すれば検閲される時代に、外国人の素朴な疑問という形で書いたのである。
単なる風刺ではない。ペルシア人の主人公が本国に残したハレムが、彼の不在中に崩壊していく筋が並行して進む。専制のもとでは、支配される側も支配する側も損なわれる、という主題が込められている。
主著法の精神では、法は普遍的なものではないと論じた。気候、風土、人口、宗教、商業、国民の気質——それぞれの社会の条件が、そこにふさわしい法を決める。神が与えた唯一の正解でも、理性が導く唯一の答えでもなく、法を社会の条件との関係で見る。この方法は後に社会学の先駆と評価された。
作品
ペルシア人の手紙(1721年)
書簡体の風刺小説である。匿名でオランダから出版され、大きな成功を収めた。
ローマ人盛衰原因論(1734年)
ローマの興亡を、偶然ではなく原因の連鎖として分析した歴史論である。
法の精神(1748年)
主著で、「三権分立」を含む。
三権分立とは、立法権、執行権、裁判権を別々の主体が持つべきだとする考えである。同じ人間が法を作り、執行し、違反を裁くなら、自由はないという理由による。モンテスキューはイギリスの政体を分析してこの原理を導いた(実際のイギリスの制度理解には不正確な点があるとされるが、原理の提示としての影響は決定的だった)。アメリカ合衆国憲法の起草者が参照し、フランス革命の人権宣言にも反映され、近代の立憲政治の土台の一つになっている。
ただし注意すべき点もある。気候が国民性を決めるという議論(暑い地方の人は専制に向く、など)は今日の目には支持できず、ヨーロッパ中心的な偏見を含む。奴隷制については批判的に論じているが、皮肉として書いた部分の読み方をめぐって議論がある。
文学史における立ち位置と影響
モンテスキューは啓蒙思想の代表の一人である。ヴォルテール、ルソー、ディドロと並ぶ。思想史では三権分立の提唱者として、政治学の古典に位置づけられる。
文学史の側から見ると、ペルシア人の手紙の位置が大きい。書簡体小説という形式は18世紀ヨーロッパで大流行した。ラクロの危険な関係、ルソーの新エロイーズ、イギリスのリチャードソンの作品群につながる。手紙という形式は、複数の視点を並べ、書き手が知らないことを読者に知らせるのに適している。
「外部の視点で自国を見る」という装置も、以後繰り返し使われた。ヴォルテールのカンディードにおける世間知らずの主人公も、同じ働きをしている。当たり前を疑わせるために、それを知らない者の目を借りるという手法の最初期の完成例である。