ボヴァリー夫人

原題
Madame Bovary
作者
ギュスターヴ・フローベール
成立
1857
フランス
時代
19世紀

概要

1856年に雑誌『パリ評論』へ連載され、翌1857年に単行本として刊行された長篇小説である。三部からなる。北仏ノルマンディーの田舎町を舞台に、平凡な医師と結婚した女性が、少女期に読んだ恋愛小説のような生活を求めて破滅するまでを描く。刊行時に公序良俗を害するとして起訴され、無罪となった。

フローベールはルーアン近郊クロワッセの家にこもり、五年近くをかけてこの作品を書いた。1日に数行しか進まないこともあったという。文を声に出して読み、調子が悪ければ書き直す作業を繰り返している。対象を選び抜いた一語で捉える「正確な言葉(le mot juste)」を求めた結果である。

1856年の連載直後、検察は公序良俗と宗教への冒涜を理由に起訴した。争点は、姦通を描きながらそれを断罪していない点にあった。1857年2月に無罪判決が出る。裁判は宣伝として働き、同年に出た単行本は成功した。

同じ1857年、ボードレール悪の華も同じ罪状で起訴され、こちらは有罪となっている。散文で描かれた姦通は無罪、詩が美と悪を結びつけることは有罪という対比は、当時何が危険と見なされたかを示すものとして繰り返し語られる。

文学史における評価と影響

それまでの小説では、語り手が前に出て人物を評価した。「この愚かな娘は」「読者諸君はお気づきだろうが」といった書き方である。フローベールはこれをやめ、出来事と人物の言動だけを置いて、判断を読者に委ねた。作者が作品から姿を消したこの書き方によって、『ボヴァリー夫人』は近代小説の技術的な到達点とされる。

その中心にあるのが自由間接話法で、地の文でありながら登場人物の心の声が混ざる書き方を指す。エンマが恋愛に憧れる場面は、地の文のまま彼女の思考の言葉で書かれる。それが語り手の見解なのか、エンマの思い込みなのかは示されない。読者は文体の調子から、その憧れが借り物であることを読み取るが、作者は一言もそう書いていない。

そのため、作者がこの姦通をどう考えているのかが、作中のどこにも書かれていない。検察はここを衝いた。不倫を描きながら、それを悪いことだと言っていない、という理由である。

誰の視点で書かれているかを固定せず、判断を書かず、読者に組み立てさせる——この書き方は以後の小説の標準になり、今日「小説らしい書き方」と感じられるものの多くがここに由来する。プルーストジョイスがこの技法を受け継いだ。

作品名から「ボヴァリスム」という語も生まれた。自分を実際以上のものと思い込み、現実との落差に苦しむ性向を指す。19世紀末に批評家ジュール・ド・ゴーティエが提唱したもので、作品名が心理の型の名前になった例である。

日本では森鷗外以降に紹介され、自然主義の作家たちが手本にした。ただし日本の自然主義は「事実をありのままに書く」という部分だけを受け取り、作者を消すという方法論は十分に継承されなかった、という指摘がある。

あらすじ

第一部。田舎の医師シャルル・ボヴァリーは、年上の未亡人との最初の結婚に死別したのち、往診先の農家の娘エンマと再婚する。エンマは修道院で育ち、そこで読んだ恋愛小説の世界に憧れていた。だが結婚生活は退屈だった。シャルルは善良だが凡庸で、話す言葉に何の輝きもない。ある夜、侯爵邸の舞踏会に招かれてきらびやかな社交を目にしたエンマは、以後いっそう現実に耐えられなくなる。

第二部。夫婦はヨンヴィルの町へ移る。エンマは若い書記のレオンに心を惹かれるが、レオンはパリへ去る。次に、近隣の地主ロドルフが近づき、二人は関係を持つ。エンマは駆け落ちを望むが、ロドルフは手紙一通を残して逃げた。エンマは病に倒れる。

第三部。回復したエンマは、ルーアンでレオンと再会し、今度は彼と関係を持つ。逢引きのために嘘を重ね、身なりを整えるために商人ルルーから金を借り続けた。借財は膨れ上がり、家財の差し押さえが決まる。エンマはロドルフにもレオンにも金を無心するが、いずれにも断られた。追い詰められたエンマは、薬屋の店から砒素を持ち出して飲み、苦しみ抜いて死ぬ。

シャルルは妻の死後、遺品の手紙からすべてを知る。それでもエンマを恨まず、まもなく衰弱して死んだ。残された幼い娘は、親類をたらい回しにされたのち、紡績工場へ働きに出される。

作者

登場する文学史