ヴォルテール

- 原綴
- Voltaire
- 生没
- 1694–1778
- 出身
- パリ
- 本名
- フランソワ=マリー・アルエ
- 国
- フランス
- 時代
- 18世紀
生涯
1694年、パリの公証人の家に生まれた。本名はフランソワ=マリー・アルエ。「ヴォルテール」は24歳で名乗った筆名で、由来は確定していない。イエズス会の学校で古典を学び、法律家になることを父に望まれたが拒んだ。20代前半には、摂政を風刺した詩を書いたとしてバスティーユ牢獄に11か月投獄されている。
1726年、決定的な出来事が起きた。貴族に侮辱され、言い返したところ、その貴族が雇った男たちに路上で殴打される。訴えようとしたが、平民が貴族を訴えることはできなかった。逆に投獄され、イギリスへの亡命を条件に釈放される。この2年半のイギリス滞在が転機になった。そこでは複数の宗派が共存し、商人が尊敬され、ニュートンが国葬されていた。身分ではなく能力で評価される社会を実見したのである。
帰国後の哲学書簡(1734年)は、イギリスの制度と思想を紹介する体裁をとる。だが実質は、それと比べたフランスの遅れを示す書物だった。焚書処分となり、著者は逃亡している。以後も追及を避けて各地を転々とした。プロイセンのフリードリヒ大王に招かれて滞在したが、3年で決裂している。最終的にスイス国境近くのフェルネーに定住した。国外へすぐ逃げられる場所を選んでいる。
1762年、カラス事件が起きる。トゥールーズのプロテスタント商人ジャン・カラスが、カトリックに改宗しようとした息子を殺したという嫌疑で拷問され、車裂きで処刑された。実際には息子は自殺だったとみられる。ヴォルテールは遺族の訴えを受け、3年にわたって世論に訴え、パンフレットを書き、有力者に働きかけた。1765年、判決が破棄され、カラスの名誉が回復されている。
1778年、83歳でパリに帰還した。熱狂的な歓迎を受けた直後に死去する。教会は埋葬を拒んだため、遺体は密かに地方へ運ばれた。革命後の1791年、遺骨はパンテオンに移されている。
作風
ヴォルテールは、あらゆる形式を一つの目的のために使った。詩、悲劇、歴史、哲学、書簡、辞典、そして短い物語。形式は手段であり、目的は一貫して不寛容と迷信への攻撃だった。
文体は明晰で速い。装飾を排し、短い文で進む。難解に書くことを軽蔑しており、読者に伝わることを最優先した。主要な武器は皮肉である。正面から否定せず、対象の論理をそのまま拡大して馬鹿げて見せる。カンディードで「すべては最善である」という命題を繰り返させながら、その傍らで登場人物に災難を浴びせ続けるのが典型である。
「コント(哲学的物語)」という形式も活用した。短く、荒唐無稽で、読みやすい。思想書では届かない読者に届き、検閲も通りやすい。深刻な主張を軽い物語に載せる戦術である。筆名も大量に使った。生涯に百以上とされる。検閲と処罰を避けながら書き続けるための技術であり、この時代の書き方そのものを規定していた。
作品
哲学書簡(1734年)
イギリスの宗教・政治・科学・文学を紹介する25通の手紙で、焚書処分を受けた。
カンディード(Candide)(1759年)
今日最も読まれている。「この世は可能なあらゆる世界のうち最善である」と教えられた青年カンディードが、故郷を追われ、戦争、リスボン大地震、宗教裁判、奴隷制を次々に経験する。災難のたびに師は同じ楽天論を繰り返し、そのたびに空々しくなる。ライプニッツに由来する当時の楽天論への攻撃であり、実在の災害を素材に使っている。1755年のリスボン地震は数万人を死なせ、「神が善なら、なぜこれが起きたのか」という問いを当時のヨーロッパに突きつけていた。結末で主人公は「われわれの畑を耕さねばならない」と言う。世界の意味を論じるのをやめ、手の届く範囲で働けという意味に読まれてきたが、この一句の解釈だけで議論が続いている。
寛容論(1763年)
カラス事件を機に書かれた。特定の冤罪から出発して、宗教的不寛容一般を論じる構成をとる。
哲学辞典(1764年)
項目ごとに宗教や制度を批判した事典形式の書物である。
文学史における立ち位置と影響
ヴォルテールは啓蒙思想を代表する人物である。モンテスキュー、ディドロ、ルソーと並ぶが、戦闘的な論争家という点で最も際立っている。
作家が自分の名声を賭けて司法の不正と戦う型を作った点も大きい。カラス事件での3年間の活動は、その最初の大規模な例である。この系譜は19世紀のゾラのドレフュス事件介入へ、さらに20世紀のサルトルへと続く。フランスにおける「知識人(アンテレクチュエル)」という役割の原型がここにある。
同時代のルソーとは対立した。ルソーが文明の進歩そのものを疑ったのに対し、ヴォルテールは理性と文明による改善を信じた。同じ啓蒙思想に括られながら、前提が正反対である。
評価には留保もつく。寛容を説きながらユダヤ教への否定的な記述を残しており、この点は現在も論じられている。また株式や取引で巨富を築いた実業家でもあり、思想と生活の整合を問う議論がある。
「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを言う権利は命がけで守る」という有名な言葉は、20世紀初頭の伝記作者による要約であり、本人の言葉ではない。
日本では明治期に紹介され、カンディードは繰り返し訳されている。