ステファヌ・マラルメ

- 原綴
- Stéphane Mallarmé
- 生没
- 1842–1898
- 出身
- パリ
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
生涯
1842年、パリの官吏の家に生まれた。5歳で母を、15歳で妹を失っている。この二つの死が、後年の「不在」を主題にした詩の背景として語られることが多い。
ボードレールの悪の華を読んで詩を書き始めた。生活のために英語教師の資格を取り、20歳でイギリスに渡って語学を学ぶ。帰国後は地方都市の中学で英語を教え、以後、死ぬまで教職を続けた。詩で生計を立てたことは一度もない。教師としての評価は高くなく、生徒に馴染めず勤務先を転々としている。1871年にパリの学校へ移り、ようやく落ち着いた。
1860年代後半、詩の書き方をめぐって深刻な行き詰まりに陥る。数年にわたって詩がほとんど書けず、健康も損ねた。この時期に、詩とは何かという考えが根本から変わったと本人が書き残している。
1880年ごろから、火曜の夜に自宅へ人を招くようになった。「火曜会」と呼ばれ、若い詩人や画家が集まる会で、ヴァレリー、ジッドらが常連だった。作品はさほど売れないまま、この集まりを通じて次の世代に強い影響を残す。1898年、パリ近郊で56歳で死去した。喉の痙攣による窒息だった。
作風
マラルメは、詩を、世界を指し示す道具であることからやめさせようとした。具体的にはこういうことである。「花」と書けば、読者は現実の花を思い浮かべる。マラルメが目指したのは、現実の花を参照させずに、言葉だけで花の効果を立ち上げることだった。散文が事物を指すのに対して、詩は言葉自体が作る秩序で成立すべきだという立場をとる。
そのために、名指しを避ける。あるものについて書くとき、その名前を使わず、周囲の状況や否定形で示す。結果として、何について書かれているのかが読者に分からない。構文も複雑である。関係詞や挿入句が幾重にも重なり、主語と述語が遠く離れる。一語が複数の意味に開かれ、どちらとも決まらないまま置かれる。一読して意味が取れないのは、失敗ではなく設計である。
「不在」を繰り返し扱った。実際にそこにないものを、言葉によってその場に現す。詩篇「白鳥」では、氷に閉じ込められて飛べない白鳥が書かれるが、白鳥そのものより、飛べたはずの飛翔のほうが主題になっている。
晩年には紙面そのものを使い始めた。骰子一擲では、文字の大きさを変え、行を斜めに配置し、余白を大きく取る。文字の配置と空白が意味を持つという発想で、詩を紙の上の空間として構成した。
作品
半獣神の午後(1876年)
牧神が昼下がりに見たニンフの姿を、夢だったのか現実だったのか判別できないまま反芻する詩篇である。ドビュッシーが同名の管弦楽曲を作り、そちらのほうが広く知られている。
詩集(1887年)
それまでの詩篇をまとめたもので、「白鳥」「窓」などを含む。
骰子一擲(1897年)
最晩年の作である。題は「骰子の一振りは決して偶然を廃棄しないだろう」の意で、その一文が紙面全体に分散して配置されている。通常の詩集の版面を完全に破棄した点で、20世紀の実験詩の直接の先例になった。
ディヴァガシオン(1897年)
散文をまとめた本である。詩論、演劇論、時評を含み、詩について何を考えていたかはここから読める。
文学史における立ち位置と影響
マラルメは象徴主義の理論的な到達点である。19世紀後半のフランスに、事物をそのまま描写せず暗示によって心の状態を喚起しようとする詩の動きがあった。これを象徴主義と呼ぶ。ボードレールが起点、ランボーが最も過激な展開、マラルメが理論の極北という配置で説明されることが多い。三者のうち、何をしようとしているのかを言語化したのはマラルメである。
20世紀の文学理論の前提を作った点も大きい。言葉は現実を写す道具ではなく、言葉自体が自立した秩序をなす——この考えが、後の構造主義やテクスト論に直接つながっている。作品を作者の意図から切り離して読む方法も、ここに源の一つがある。
詩の系譜ではヴァレリーが直接の後継者にあたる。火曜会に通った世代であり、難解さと厳密さを引き継いだ。1920年代のシュルレアリスム——理性の統制を外して無意識を書こうとした運動——も、意味の統制を外すという点でマラルメの延長に置かれる。紙面の実験の影響は文学の外にも及び、骰子一擲の配置は、20世紀の具体詩、タイポグラフィ、現代美術で繰り返し参照されている。
日本では上田敏以降に紹介され、萩原朔太郎ら近代詩の書き手が影響を受けた。西脇順三郎の実験的な詩作も、この系譜に位置づけられる。
難解さそのものは、評価をめぐる論点であり続けてきた。意図的な晦渋であって内容が伴わないという批判は、同時代から今日まで繰り返されている。一方で、詩が何を目指しうるかの限界を示した仕事として、その位置は動いていない。