ジャン=ポール・サルトル

原綴
Jean-Paul Sartre
生没
1905–1980
出身
パリ
フランス
時代
20世紀以降

生涯

1905年、パリに生まれた。父は生後15か月で病死し、母の実家で祖父に育てられた。祖父は大学教授で、書斎の蔵書が幼少期の環境になっている。自伝『言葉』では、本に囲まれて育ったことが自分を作ったと書いた。

高等師範学校で哲学を学ぶ。同期にシモーヌ・ド・ボーヴォワールがいた。二人は生涯の伴侶となるが、法律上の結婚はせず、互いに他の関係を持つことを認め合う契約を結んでいる。この関係のあり方自体が、当時としては例外的で、後年まで論じられてきた。

高校教師として働きながら書いた。1933年からベルリンに留学し、フッサールとハイデガーの現象学を学ぶ。ここで得た方法が、後の哲学の土台になる。1938年に小説『嘔吐』を発表。第二次大戦では召集され、ドイツ軍の捕虜になって9か月を収容所で過ごした。釈放後はレジスタンスの周辺で活動する。

1943年、哲学の主著存在と無を刊行した。戦後、一躍思想界の中心になる。1945年に雑誌『レ・タン・モデルヌ』を創刊し、文壇と論壇の両方に影響力を持った。

政治的な発言も生涯続けた。アルジェリア戦争ではフランスの植民地支配に反対し、独立を支持する。自宅が爆破される事件も起きている。ベトナム戦争を裁く民衆法廷に参加し、1968年の五月革命では学生の側に立った。1952年にはカミュと決裂する。カミュの反抗的人間を『レ・タン・モデルヌ』誌上で批判し、公開の応酬を経て絶交した。ソ連の強制収容所をどう評価するかが背景にある。

1964年、ノーベル文学賞に選ばれたが辞退した。作家が制度によって権威づけられることを拒む、という理由である。晩年は失明に近い状態になった。1980年、74歳で死去。葬儀には数万人が集まったと伝えられる。

作風

サルトルは、哲学の主張を、小説と戯曲で具体的な状況に落とすという二本立ての方法をとった。

中心の命題が「実存は本質に先立つ」である。ペーパーナイフのような道具は、何のためのものかが決まってから作られる。人間は逆で、まず存在してしまい、後から自分が何であるかを選ぶ。あらかじめ決まった本質はない。したがって人間は常に選ばなければならず、選ばないという選択もまた選択になる。「人間は自由の刑に処されている」という言い方がここから出る。逃げ場がない。

「アンガージュマン(社会参加)」も同じ論理から導かれる。書くことは行動であり、作家は自分の時代に対して責任を負う。沈黙も一つの態度表明とみなされる。

小説と戯曲では、この主張を極限状況に置いて示す。戯曲出口なしでは、死んだ三人が一室に閉じ込められる。互いに嘘を暴き合い、逃げられない。「地獄とは他人のことだ」という有名な台詞は、他者の視線が自分を規定してしまうという存在と無の議論を、舞台の状況として提示したものである。

「まなざし」の分析も特徴的である。鍵穴を覗いている人間が、背後の足音に気づいた瞬間、自分が「覗いている人」として固定される。他者に見られることで、自分が一つの対象になるという記述で、後の思想に広く引かれた。

作品

嘔吐(1938年)

最初の小説である。地方都市で歴史の調査をする男が、事物の存在そのものに吐き気を覚えるようになる。公園の木の根を見つめる場面が中心にある。物には理由も必然性もなく、ただそこにあるという感覚が、日記の形式で記録される。哲学的な省察が長く、筋を追う小説として読むと戸惑う。

存在と無(1943年)

哲学の主著で、専門書であり、文学として読むものではない。

出口なし(1944年)

一幕の戯曲で、登場人物は三人。最も短く、主題が凝縮されているため、入口に向く。

実存主義とは何か(1946年)

講演の記録である。「実存は本質に先立つ」を一般向けに説明した文章であり、実存主義の入門として最も読まれている。

文学とは何か(1947年)

文学論で、散文は行動であり、書くことは世界に働きかけることだと論じた。

言葉(1964年)

幼少期を書いた自伝で、ノーベル賞の対象になった作品とされる。

文学史における立ち位置と影響

サルトルは戦後フランスの思想と文学の中心にいた。第二次大戦後、既存の価値が崩れた状況で、「意味は与えられていないのだから、自分で作るしかない」という主張が広く受け入れられた。実存主義は哲学の枠を超えて流行し、カフェや服装まで含む一つの文化現象になっている。

「文学は何のためにあるか」を正面から問うた点で、文学史のなかでも特異である。文学とは何かは、書くことを政治的な行為として位置づけた。この立場は、文学の自律性を重んじる側から強く批判されている。文学を手段にするなら文学でなくてよい、という反論である。

作家が社会に介入する型は、ゾラのドレフュス事件から続く系譜にある。サルトルはそれを理論化し、生涯にわたって実行した。

1950年代後半から、影響力は相対化された。構造主義の台頭により、「人間は自由に選ぶ主体である」という前提そのものが疑われるようになる。主体より構造を見る立場からは、サルトルは乗り越えるべき対象になった。

ボーヴォワールとの関係も、思想史の一部をなしている。二人は互いの原稿を読み合い、議論を重ねた。ただし長く「サルトルの伴侶」として扱われてきたボーヴォワールの独自性は、近年になって正当に評価されるようになっている。

日本では戦後に大きく受容され、実存主義は思想界の共通語になった。大江健三郎をはじめ、影響を公言する作家が多い。

作品

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