シャルル・ボードレール

黒い上着を着て、正面をまっすぐ見据えるシャルル・ボードレールの肖像写真。
エティエンヌ・カルジャ撮影(1862年頃)
原綴
Charles Baudelaire
生没
1821–1867
出身
パリ
フランス
時代
19世紀

生涯

1821年、パリに生まれた。父は60歳を過ぎた元官吏で、ボードレールが6歳のときに死去する。母は翌年、軍人オーピックと再婚した。この再婚をボードレールは生涯許さず、義父との対立が続いた。

放蕩が目立ったため、家族は21歳のときインド行きの船に乗せている。航海は途中で切り上げて帰るが、この時に見た熱帯の光景は後の詩に繰り返し現れる。成人して父の遺産を受け取ると、1年半ほどで半分近くを使い果たした。家族は法的な後見人を立て、以後は毎月わずかな額を渡される身になる。この措置が屈辱として残り、生涯の困窮と借金の原因になった。

文筆は美術批評から始めた。1845年からサロン評を書いた。サロンは国が主催する美術展で、その論評は当時の批評の主戦場である。ここで画家ドラクロワを擁護した。1852年からはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの翻訳を始め、17年かけて主要作を訳した。フランスにおけるポーの受容そのものを、この翻訳が作っている。

1857年、詩集悪の華を刊行した。同年、公序良俗を害するとして起訴され、有罪となる。6篇の削除と罰金を命じられた。同じ年にフローベールボヴァリー夫人も同じ罪状で起訴されており、こちらは無罪だった。

以後も困窮は続いた。1866年、ベルギー滞在中に脳の発作で倒れ、失語と麻痺が残る。パリに戻され、翌1867年に46歳で死去した。母の墓に、憎み続けた義父と並んで埋葬されている。

作風

ボードレールは、詩の主題を、それまで詩にならないとされていた領域へ広げた。都会の群衆、娼婦、老女、酔漢、そして腐乱した動物の死体。「腐屍」という詩篇は、道端の死骸を克明に描写したうえで、恋人に「あなたもいずれこうなる」と告げる。

有罪判決の核心は、美を道徳から切り離した点にある。詩は読者を善くするものだという当時の前提に対して、ボードレールは、美は善悪と関係なく成立すると主張した。悪や醜を描くのは、それが美になりうるからだ、という立場である。

もう一つの柱が「照応(コレスポンダンス)」である。同名の詩篇で、香りと色と音が互いに対応し合うと書いた。「香りには子供の肌のように爽やかなものがある」といった形で、本来は比較できない感覚同士を結びつける。ここから、事物は別の何かの記号だ、という考えが出てくる。目に見える世界は、その背後にある何かを指し示している。詩は事物を描写するのではなく、その対応関係を見つける仕事になる。この発想がの出発点になった。

散文詩という形式も試みた。韻文の規則を外し、散文の姿のまま詩として書くもので、後の自由詩へ向かう動きの一つである。

作品

悪の華(Les Fleurs du mal)(1857年)

代表作である。詩集全体が一つの構成を持ち、憂鬱から出発して、酒・悪徳・反抗を経て死に至る配列になっている。削除を命じられた6篇は、レズビアンの主題を扱ったものが中心だった。1861年の第二版では、削除分を補う形で35篇が新たに加えられ、パリの街を主題にした「パリ風景」の部が増設されている。有罪判決が正式に破棄されるのは1949年である。

パリの憂鬱(1869年、死後刊行)

散文詩集である。50篇からなり、大都市の断片的な光景を扱う。韻文を捨てても詩が成立することを示した点で、形式の面での実験になっている。

人工楽園(1860年)

大麻とアヘンの効果を論じた散文である。感覚の変容を通じて別の認識に達しようとする試みだが、最終的には否定的な結論に向かう。

現代生活の画家(1863年)

美術批評である。「モデルニテ(近代性)」という語をここで用い、移ろいやすく偶然的なものの中にこそ、その時代固有の美があると論じた。

文学史における立ち位置と影響

ボードレールは象徴主義の起点である。19世紀後半のフランスに、事物をそのまま描写せず暗示によって心の状態を喚起しようとする詩の動きが生まれた。これを象徴主義と呼ぶ。「照応」で示された「事物は別の何かの記号だ」という考えが、その理論的な出発点になった。

そこからヴェルレーヌランボーマラルメへと系譜が伸びる。三者は方向が異なるが、詩が意味を伝える道具であることをやめていく点で共通しており、その転換は20世紀の詩と詩論の前提になった。

近代都市を主題にした最初期の詩人でもある。群衆のなかの孤独、通りすがりの女への一瞬の恋、街の改造で失われた風景。同時代のパリは、県知事オスマンによる大改造の最中にあった。古い街区が取り壊されて広い直線の大通りが通され、街そのものが変わり続けていた。都市を主題にする文学の系譜は、ここから始まっている。「モデルニテ」の概念は文学の外にも及び、移ろうものの中に美を見るという見方は、印象派以降の絵画論や20世紀の芸術理論に長く引かれた。

批評家としての仕事も大きい。ドラクロワ擁護のサロン評、ワーグナー論、そしてポーの翻訳がある。ポーはフランス語圏でボードレールの訳を通じて読まれ、本国アメリカより高く評価される時期が続いた。ヴェルレーヌが後に呪われた詩人たちでランボーとマラルメを世に出したのと同じく、紹介者としての功績が作品と並ぶ。

日本では上田敏、永井荷風、堀口大學らが訳し、萩原朔太郎をはじめ近代詩の書き手に広く影響した。

作品

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