ルイ=フェルディナン・セリーヌ
- 原綴
- Louis-Ferdinand Céline
- 生没
- 1894–1961
- 出身
- オー=ド=セーヌ県クールブヴォワ(パリ近郊)
- 本名
- ルイ=フェルディナン・デトゥーシュ
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1894年、パリ近郊で生まれた。本名はルイ=フェルディナン・デトゥーシュ。「セリーヌ」は祖母の名から取った筆名である。商店員の子で、裕福ではない。
第一次大戦に志願して従軍し、頭部を負傷した。後遺症に生涯苦しみ、耳鳴りと頭痛が続いたとされる。この戦争体験が、後の全作品の根にある。
戦後、医学を学んで医師になった。アフリカの植民地、アメリカのフォード工場の診療所を経て、パリ郊外の貧しい地区で診療を続けている。貧困層を相手にした医師であり、作品に出てくる病と貧困は、職業として日々見たものである。1932年、最初の小説夜の果てへの旅を発表し、一躍知られた。
1937年以降、反ユダヤ主義を掲げたパンフレットを数点発表した。ナチス・ドイツの占領期にもその立場を保っている。戦後は対独協力者として追及され、デンマークへ逃亡した。フランスでは欠席裁判で有罪となっている。恩赦を受けて帰国したのは1951年である。以後はパリ郊外で診療を続けながら書いた。1961年、67歳で死去。
作風
セリーヌは、書き言葉を話し言葉の側へ引きずり下ろした。それまでのフランス語の散文は、整った書き言葉だった。プルーストの長い一文にせよ、ジッドの端正な文にせよ、書くための言語である。
セリーヌが持ち込んだのは、俗語、罵倒、兵隊や労働者の言葉づかいだった。そして三点リーダー(…)で文を断ち切り、感嘆符を多用する。息継ぎと興奮のリズムが、そのまま文に刻まれる。話し言葉の情動を書き言葉のなかに移すこと——これを本人は自分の発明だと考えていた。整った文が伝えられない、感情が高ぶったときの言葉の壊れ方を、文体として再現しようとしたのである。
内容は徹底した否定である。英雄も理想も救いも出てこない。そして、その否定が笑いを伴う。絶望が滑稽な調子で書かれ、悲惨な場面ほど可笑しい、という独特の効果を持つ。結果として、フランス語の散文の可能性が一段広がった。20世紀後半の作家の多くが、賛否は別として、この文体を無視できなくなる。
作品
夜の果てへの旅(1932年)
代表作である。主人公バルダミュが、第一次大戦、アフリカの植民地、アメリカの工場、パリ郊外の貧民街の診療所を渡り歩く。どこにも救いがない。戦争は愚劣で、植民地は搾取で、工場は人を機械にし、貧民街には病と暴力がある。発表当時から評価は高く、サルトルをはじめ多くの作家が影響を認めた。フランスで最も注目されるゴンクール賞は逃したが、同じ年に決まるルノドー賞を受けている。
なしくずしの死(1936年)
少年期を書いた長篇で、文体はさらに断片化している。
晩年三部作『城から城(D'un château l'autre)』『北(Nord)』『リゴドン(Rigodon)』(1957〜69年)
敗戦時のドイツ逃亡の日々を書いたものである。
文学史における立ち位置と影響
セリーヌは20世紀フランス文学の文体上の転換点として扱われる。プルーストと並べて、同じ世紀の両極として位置づけられることが多い。プルーストが長い一文で意識の動きを追ったのに対し、セリーヌは文を砕いて情動を刻んだ。方向は逆だが、どちらも整った散文の外へ出ようとした点は共通する。影響を認めた作家は多く、サルトル、ジュネ、後の世代ではウエルベックが挙げられる。フランス国外にも及んでいる。
そして、反ユダヤ主義の問題を切り離せない。1937年以降のパンフレットの内容は擁護不可能なものである。問題は、これを作品の評価と切り離せるかどうかにある。
「文体の革新は思想とは独立に評価すべきだ」という立場と、「あの文体の暴力性と、あの思想は同じ源から出ている」という立場が、今日まで対立している。議論は決着していない。フランスでは近年もパンフレット類の再刊をめぐって論争が起きており、生きた問題であり続けている。同じ問題はT・S・エリオットやエズラ・パウンドにもあり、20世紀文学が繰り返し直面してきた論点である。
日本語で作品だけを読むと、この背景が見えない。夜の果てへの旅の否定の強さだけを受け取ると、作家像を取り違える。事実を知ったうえで、切り離せるかを各自が判断するしかない、というのが現在の一般的な扱いである。