マルグリット・デュラス
- 原綴
- Marguerite Duras
- 生没
- 1914–1996
- 出身
- 仏領インドシナ・ザディン(現ベトナム・ホーチミン市近郊)
- 本名
- マルグリット・ドナデュー
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1914年、当時フランスの植民地だったインドシナ(現ベトナム)に生まれた。本名はマルグリット・ドナデュー。「デュラス」は父の故郷の地名から取った筆名である。
父を早くに亡くし、母が現地で教員をして三人の子を育てた。母は全財産をはたいて農地を買ったが、それは海水が入る使い物にならない土地だった。植民地当局の汚職によるものとされる。母は堤防を築いて田を守ろうとして、失敗した。この破産が、後の複数の作品に繰り返し現れる。一家は「貧しい白人」だった。植民地の支配民族でありながら、現地で貧困層に属する。どちらの側にも完全には属さない位置であり、それが作品の距離感を作っている。
18歳でフランスへ渡り、以後フランスで暮らした。第二次大戦中はレジスタンスに加わっている。夫がナチスに捕らえられ、強制収容所から生還した。その帰りを待つ日々を、後に『苦悩』に書いている。
戦後、共産党に入党し、後に除名された。1950年に太平洋の防波堤で作家として認められる。1984年、70歳で書いた愛人 ラマンが、フランスで最も注目される文学賞であるゴンクール賞を受け、世界的なベストセラーになった。晩年はアルコール依存に苦しみ、昏睡から回復した経験も書いている。1996年、パリで81歳で死去した。
作風
デュラスの文章は、短い文が改行で切られ、主語が省かれ、同じ句が反復される。説明を積まないため、一つの場面で誰が何をしたのかが確定しないまま次へ進むことがある。
同じ場面が、少しずつ違う形で何度も戻ってくるのも特徴である。出来事を時間の順に一度だけ語るのではなく、記憶が反復される形で提示される。愛人 ラマンでは、メコン川の渡し船で少女と中国人青年が出会う場面が作品中に何度も現れ、そのたびに細部が変わる。
この方法を、一つの記憶に集中して使った。15歳のとき、メコン川の渡し船で出会った、貧しいフランス人の少女と裕福な中国人の青年。デュラスはこの素材を、生涯で三度、別の作品として書いている。太平洋の防波堤では三人称で、『愛人 ラマン』では一人称で、北の中国の愛人でもう一度。同じ出来事が、語り直すたびに違う。どれが事実かは確定できず、自伝と呼ぶべきかも定まっていない。書き直すこと自体が、この作家の方法になっている。
作品
太平洋の防波堤(1950年)
母の失敗した堤防を軸にした三人称の小説である。メコン川の渡し船の記憶が、最初に扱われた形である。
モデラート・カンタービレ(1958年)
カフェで起きた殺人をきっかけに、女と男が会話を重ねる。1950年代フランスで、筋も人物も持たない小説を目指したヌーヴォー・ロマンと結びつけて論じられた作品である。
愛人 ラマン(1984年)
代表作である。70歳で書き、ゴンクール賞を受けた。15歳の記憶を一人称で書き直したもので、写真の描写から始まり、時間を前後しながら進む。
北の中国の愛人(1991年)
『愛人』の映画化に不満を持ち、もう一度書き直したものである。
苦悩(1985年)
夫の収容所からの帰還を待った日々の手記である。
文学史における立ち位置と影響
デュラスは20世紀後半のフランス語散文の文体を変えた一人とされる。削ぎ落とした短い文で、むしろ濃い感情を運ぶという書き方が、後続の書き手に影響した。
ヌーヴォー・ロマンと並べられることが多いが、本人はその括りを拒んでいる。ロブ=グリエやサロートが物語と心理を解体する方向へ進んだのに対し、デュラスは情念を手放さない。方法は似ていても、目的が違う。
エルノーと比較されることもある。どちらも自分の人生を素材にするが、エルノーが「私」を社会の一事例として記述するのに対し、デュラスは記憶の曖昧さそのものを書く。方向が逆である。
映画の分野でも重要な仕事をした。アラン・レネ監督の『ヒロシマ・モナムール』(邦題『二十四時間の情事』、1959年)の脚本を書いている。広島で出会ったフランス人女性と日本人男性が、それぞれの戦争の記憶を語る。「あなたは広島で何も見なかった」という反復が作品を貫き、語りえないものをどう語るかという主題は、ツェランやレーヴィと同じ問題圏にある。その後は自ら監督もし、映像と音声をずらす手法で映画の側からも評価された。
日本での受容は厚い。『ヒロシマ・モナムール』が日本を舞台にしていること、そして断片的な文体が日本語の散文と相性がよかったことが理由に挙げられる。
評価には振れ幅がある。反復が多く自己模倣的だという批判は繰り返し出ている。それでも、文体史における位置は動いていない。