クレーヴの奥方

原題
La Princesse de Clèves
作者
ラファイエット夫人
成立
1678
フランス
時代
17世紀

概要

1678年3月に匿名で刊行された長篇小説である。日本語訳で三百ページ前後になる。

舞台は1558年から翌年にかけてのアンリ二世の宮廷である。作者の生きた時代より百二十年ほど前にあたり、登場人物の多くは実在の人物である。そこに架空の主人公が置かれる。

十六歳のシャルトル嬢はクレーヴ公と結婚するが、宮廷でヌムール公に惹かれる。二人は言葉を交わす機会もほとんどないまま、互いの気持ちを察している。物語の大半は、この気持ちをどう扱うかをめぐって進む。

作品の中心にあるのは事件ではなく、人物が何を考えているかの記述である。誰が誰の視線に気づいたか、その動作を相手がどう解釈したか、といった水準で書かれる。この書き方が後の小説に受け継がれ、フランス心理小説の起点として扱われるようになった。

作者マリー=マドレーヌ・ド・ラファイエットは1634年、パリの官僚の家に生まれた。二十一歳でラファイエット伯爵と結婚し、まもなく夫と別居してパリで暮らした。自宅に文人を集めるサロンを開いており、その常連の一人がラ・ロシュフコーである。

ロシュフコーは『箴言集』で知られる。人間の善行に見えるものの裏に自己愛を見出す短い文を集めた本で、1665年に出ている。この作品の心理の書き方には、その影響が指摘されてきた。作品にラ・ロシュフコーがどこまで手を入れたかについては議論があり、断定されていない。

刊行は匿名だった。当時、身分のある女性が小説を書いて名を出すことは避けられており、ラファイエット夫人は生涯、著者であることを認めなかった。友人への手紙では、自分の作ではないと書いている。

刊行直後、雑誌『メルキュール・ガラン』が読者に意見を募った。奥方が夫に告白したのは正しかったかという問いで、賛否が投書として寄せられた。同時代の批評家ヴァランクールが批判の書を出し、別の書き手が反論を書いている。小説をめぐって公の論争が起きた早い例にあたる。

文学史における評価と影響

17世紀の小説の主流は、数千ページに及ぶ長篇で、異国を舞台に冒険と恋愛を連ねるものだった。この作品は分量が短く、舞台はフランスの宮廷に限られ、事件はほとんど起きない。この転換が、近代小説の出発点として扱われる理由にあたる。

告白の場面が繰り返し論じられてきた。妻が夫に、別の男に惹かれていると打ち明ける。当時の読者にとって、これは道徳の問題であると同時に、そんなことをする人物が現実にありうるかという問題だった。作中でも、この告白は夫を救わず、かえって死に至らせる。

結末の拒絶も議論の対象である。奥方は夫への負い目だけでなく、相手の愛が続かないという見通しを理由に挙げる。情念に身を委ねれば必ず苦しむという判断で、道徳よりも観察に近い。ロシュフコーの箴言に通じる見方として読まれてきた。

2006年、当時内務大臣だったサルコジが、公務員試験でこの小説について問うことを繰り返し揶揄した。これに対し、大学教員や俳優による公開朗読が各地で行われ、書籍の売上が伸びるという出来事があった。教育で何を読ませるかをめぐる論争の材料になった例にあたる。

あらすじ

十六歳のシャルトル嬢が宮廷に現れる。父は早くに死に、母のシャルトル夫人が娘を厳しく育てた。宮廷では恋愛が権力の道具として使われること、そこで身を持ち崩す女がどうなるかを、母は具体的に教え込んでいる。

縁談がいくつか壊れた後、シャルトル嬢はクレーヴ公と結婚する。クレーヴ公は妻を深く愛しているが、妻の側にあるのは尊敬だけである。結婚の後もその感情は変わらない。

舞踏会で、クレーヴの奥方はヌムール公と出会う。宮廷で最も美しく、女たちの噂の的になっている男である。二人は踊り、その場の全員が二人の様子に気づく。

以後、二人は互いを避けながら意識し続ける。ヌムール公は奥方の肖像画を盗む。奥方はそれに気づいていながら、黙って見過ごす。ある夜会で、恋人に自分の気持ちを知られたくない人物がいるという話題が出たとき、奥方の反応から、ヌムール公は自分が気づかれていることを知る。

奥方は自分の状態に耐えられなくなる。母はすでに死んでおり、相談する相手がいない。そこで奥方は、宮廷を離れて田舎の屋敷に引きこもりたいと夫に願い出る。理由を問われて、自分は宮廷のある人物に心を惹かれており、そこから逃れたいと打ち明ける。相手の名は言わない。

クレーヴ公は妻の誠実さを認めながら、同時に耐えがたい苦しみを負う。誰なのかを知ろうとして問い詰め、奥方は答えない。

この会話を、庭の生垣の陰にいたヌムール公が聞いている。自分が愛されていることを知る。

ヌムール公はこの話を、名を伏せて友人に漏らす。話は宮廷を回り、形を変えて奥方の耳に戻ってくる。奥方は夫が漏らしたと思い、夫は妻が漏らしたと思う。互いへの不信が残る。

クレーヴ公は従者に妻を見張らせる。ある夜、田舎の屋敷にヌムール公が近づいたという報告が入る。実際には、ヌムール公は庭から屋敷の中を見ただけで、奥方は気づいていない。報告を聞いたクレーヴ公は、妻が受け入れたと判断する。熱を出して寝つき、そのまま死ぬ。

死の間際、クレーヴ公は妻に、あなたが自分を殺したのだと言う。奥方は事実を説明するが、夫は信じないまま死ぬ。

夫の死後、結婚を妨げるものはなくなる。ヌムール公は仲介者を立てて求婚する。奥方は会って、拒む理由を述べる。夫を死なせた責任があること。そしてもう一つ、この人の愛はいずれ冷めるだろうということ。ヌムール公はこれまで多くの女に飽きてきた。自分もそうなる。そのとき自分は、いまの相手が味わった苦しみを味わうことになる。

奥方は修道院と田舎の屋敷を行き来する生活に入る。ヌムール公は数年のあいだ諦めきれずにいたが、やがて忘れる。奥方は若くして死ぬ。

作者

登場する文学史