フランス詩の歴史 — 武勲詩からアレクサンドラン、自由詩まで

フランス詩の歴史は、規則を定め、それを破ることの繰り返しである。十二音節の一行と脚韻という枠組みが十七世紀に固められ、以後二百年にわたって詩を支配した。十九世紀にその枠を揺さぶる詩人が現れ、二十世紀の初めについに枠そのものが外される。ここでは、その全体を時代の順にたどる。

フランス詩の流れ 早見表

時代中心の形式代表的な作品どんな詩が書かれたか
11〜13世紀武勲詩・宮廷抒情詩ローランの歌語り歌われる英雄の物語と、南仏の騎士が貴婦人に捧げる恋の歌
14〜15世紀バラード・ロンドー遺言の書決まった型を繰り返す定型詩。宮廷の洗練と、無頼の生の声
16世紀ソネット・オード恋愛詩集イタリアに学び、フランス語で古典に並ぶ詩を作ろうとする
17〜18世紀悲劇・寓話・詩法寓話規則が確立し、明晰さと均整を最上とする
19世紀前半抒情詩静観詩集詩人が「私」を語り、感情と想像力を解き放つ
19世紀後半ソネット・散文詩悪の華感情の吐露を退け、言葉そのものの喚起力に賭ける
20世紀以降自由詩アルコール定型と句読点を捨て、無意識や日常の言葉へ向かう

フランス詩の土台 — 音節と脚韻

はじめに、フランス詩がどう作られているかを押さえておく。ここが分かると、以後の反乱の意味がすべて理解しやすくなる。

フランス語には、日本語のような音数の自由さも、英語やドイツ語のような強弱の拍もない。そこでフランス詩は、二つの決まりで形を作った。

一つが音節の数である。一行に含む音節を一定にする。最も重んじられたのが十二音節の行で、これをという。六音めのあとに切れ目(休止)を置き、六・六に分けて読む。

実際に一行を数えてみる。ラシーヌの悲劇フェードルの「日の光も、私の心の底ほどには清くない」という一句は、原文では次のように切れる。

前半(六音節)切れ目後半(六音節)
Le / jour / n'est / pas / plus / purque / le / fond / de / mon / cœur

六音節ずつが向かい合い、真ん中で一度息が止まる。前半で述べたことを、後半が受けて反転させる——この左右対称の構造が、対句や逆説を作るのにきわめて向いていた。フランス古典悲劇の名句の多くが、この形をとっている。

悲劇も長詩も、この一行の積み重ねで書かれた。フランス詩の背骨といってよい。

もう一つがである。行の終わりを同じ響きでそろえる。しかも並べ方に決まりがあり、無音のeで終わる行(女性韻)と、それ以外(男性韻)を交互に置くことが求められた。

この二つが、後の時代に「破るべき規則」として立ちはだかる。フランス詩の歴史は、アレクサンドランと脚韻をめぐる攻防としても読める。

中世 — 武勲詩とトルバドゥール(11〜13世紀)

最も古い層にあるのがである。楽器を伴って語り歌われた英雄叙事詩で、シャルルマーニュとその臣下の戦いを主題とする。代表がローランの歌(11世紀末)で、ピレネー山中で全滅する騎士ローランの最期を描く。個人の内面ではなく、忠義と武勲が主題である。

これとまったく違う詩が、同じ頃の南フランスに生まれた。の抒情詩である。騎士が高貴な既婚の貴婦人に仕え、報われない恋を歌う。愛は多くの場合かなえられず、その苦しみに耐えることが騎士を高めるものとして描かれた。歌われるのは成就ではなく、待ち焦がれる状態そのものである。

この型は、以後のヨーロッパの恋愛詩の原型になった。ただし注意が要る。今日「宮廷風恋愛」と呼ばれるこの呼称は、19世紀の学者ガストン・パリスが1883年に用いた造語であって、中世の詩人たちがそう名乗ったわけではない。当人たちは「フィナモール(洗練された愛)」などと呼んだ。中世に統一された恋愛の作法があったかのように語るのは、後世の整理であるという指摘は、今も研究の争点になっている。

北フランスでは、クレチアン・ド・トロワがアーサー王をめぐる韻文物語を書き、マリー・ド・フランスが、ケルトの伝説を素材にした短い物語詩『レー』を残した。マリーは、名の判明しているフランス最初期の女性作家である。

13世紀には『ばら物語』が広く読まれた。恋を寓意で描く長大な詩で、以後数百年にわたって参照され続ける。

定型詩の時代 — バラードとヴィヨン(14〜15世紀)

中世の後期、詩は厳格な定型に整えられていく。中心になったのがである。バラードは、同じ脚韻の型を持つ三つの連と短い献辞からなり、各連の末尾に同じ一行を繰り返す。ロンドーは、冒頭の語句が途中と末尾に戻ってくる。

この二つは、あくまで形式の区別であって、主題が決められていたわけではない。だが実際には、構造の違いが扱いやすい主題を選ばせた

ロンドーは、もともと輪になって踊るときの歌に由来する。短く、同じ語句が軽やかに戻ってくるため、季節の移り変わりや恋の戯れといった軽い主題に向いた。シャルル・ドルレアンの「時は脱ぎ捨てた/風と寒さと雨の衣を」という一篇は、春の訪れをうたったロンドーである。

バラードは長い。三つの連を積み重ねられるので、同じ主題を角度を変えて展開し、順を追って言い進めることができる。しかも献辞の連は慣例として「王侯よ」と貴人に呼びかける形をとり、公に向けて述べる調子を帯びる。そのため、死や運命、世の無常、痛烈な風刺といった重い主題が集まった。ヴィヨンが自らの処刑を想定して書いた「絞首刑囚のバラード」は、その典型である。

繰り返しが軽さを生むロンドーと、積み重ねが重さを許すバラード。同じ定型詩でも、形が主題の傾きを作っていた。

この形式を洗練の極みへ導いたのが、先のロンドーを詠んだシャルル・ドルレアンである。王族でありながらアジャンクールの戦いで捕虜となり、二十五年をイングランドで過ごした。その間に、抑えた調子で憂いと季節を歌う詩を書き続けた。

同じ時代、まったく別の場所から声を上げたのがフランソワ・ヴィヨンである。学生でありながら盗みと殺傷に関わり、投獄と追放を繰り返した。

ヴィヨンは同じバラードの型を使いながら、そこに死の恐怖と生の実感を流し込んだ。遺言の書に含まれる「去年の雪いまいずこ」という一句は、かつて名を馳せた美女たちを次々に呼び出したのちに、彼女たちは今どこにいるのかと問い、この一行で締める。定型の枠が、かえって嘆きを研ぎ澄ましている。

洗練の極みのシャルルと、生の声のヴィヨン。中世フランス詩は、この二つの極で幕を閉じる。

16世紀 — プレイヤード派とフランス語の鍛錬

ルネサンスとともに、詩の目標が変わる。イタリアではすでにペトラルカが俗語で高い詩を残しており、フランス語でも同じことができるはずだ、という気運が生まれた。

1549年、デュ・ベレーが『フランス語の擁護と顕揚』を発表する。フランス語は生まれつき劣っているのではなく、まだ耕されていないだけだ、と説いた。古代やイタリアの作品を模倣して語彙を増やし、格の高い形式で書けば、フランス語も豊かな詩の言葉になる、と。

この綱領を掲げた七人の詩人の集団がプレイヤード派である。中心はロンサールで、イタリア由来のと、古代に倣ったをフランス語に定着させた。中世のバラードやロンドーは、ここで古い形式として退けられる。

ロンサールは恋愛詩集でソネットを大量に実作し、この形式をフランス語に根づかせた。「愛する人よ、見に行こう、あの薔薇を」と始まる一篇は、朝に開いて夕には散る花を見せ、あなたの若さも同じだと告げる。デュ・ベレーはローマ滞在の経験から詩集『哀惜』を書き、廃墟となった古代への感慨と、故郷への郷愁を率直に歌った。

17〜18世紀 — 規則が詩を支配する

ルネサンスの奔放さは、次の世紀に整理される。担ったのがマレルブである。ロンサールらが語彙を増やし技巧を凝らしたのを混乱とみなし、誰にでも通じる明晰さを掲げた。使ってよい語を限り、行の切れ目の位置を定め、脚韻を正確に踏むことを求めた。

ボワローが『詩法』(1674年)で「ついにマレルブが来た」と書き、これをもって混乱の時代が終わったと宣言する。1635年に設立されたアカデミー・フランセーズが言語を管理し、規範は制度に支えられた。

古典主義の時代、詩の中心は劇にあった。ラシーヌの悲劇フェードルは、アレクサンドランを積み重ねて、逃げ場のない情念を描き出す。の規則が事件を舞台の外へ追いやったため、残るのは言葉だけになり、詩の密度が上がった。

劇以外ではラ・フォンテーヌ寓話が際立つ。動物に人間の愚かさを演じさせる短い物語詩で、行の長さを自在に変える軽やかな詩法を用いた。規則の時代にあって、例外的にしなやかな詩である。

18世紀は、詩にとっては低調な時代とされる。理由は二つある。

一つは、啓蒙思想の関心が散文へ向かったことである。社会を批判し、制度を論じ、知識を整理する——そうした仕事には、評論・書簡体小説・事典のほうが向いていた。書き手の情熱が詩から散文へ移ったのである。

もう一つが、規則が固まりすぎたことである。マレルブ以来の規範は、この頃には作法として定着し、詩を書くことは既存の型を上手に扱う技術に近づいていた。新しいものが出にくくなっていたところへ、散文が新しい主題を次々に取っていった。

例外的な存在が、世紀末のアンドレ・シェニエである。古代ギリシャを範とする清新な詩を書いたが、フランス革命下で反革命の嫌疑をかけられ、恐怖政治の終わるわずか三日前に処刑された。作品の刊行は死後二十年以上を経てからで、そのとき彼を発見したのが、次のロマン主義の世代だった。

19世紀前半 — ロマン主義の反乱

十九世紀に入ると、二百年続いた規範への反乱が始まる。ロマン主義である。

まず主題が変わった。ラマルティーヌの『瞑想詩集』(1820年)は、失った恋人への思いを自然に重ねて歌い、詩人が「私」を語ることを解禁した。ついでヴィニーが孤高の思想詩を、ミュッセが恋の痛みを、ネルヴァルが夢と狂気に踏み込む幻想的な詩を書く。

形式への攻撃を担ったのがユゴーである。まず語彙の制限を破った。古典主義は、詩にふさわしい高雅な語とそうでない語を区別していたが、ユゴーは俗語や具体的な事物の名を平気で持ち込む。「豚に豚と言った」と評されたほどである。

さらに、アレクサンドランの六・六という切れ目そのものを揺さぶった。意味の切れ目を六音めからずらし、四・四・四の三分割で読ませる行を多用する。中央で対称に折り返す構造が崩れ、一行が流れるようになった。ユゴー自身、この仕事を振り返って「私はあの馬鹿でかいアレクサンドランを脱臼させた」と書いている。規則を捨てたのではなく、内側から関節を外したのである。

1830年、戯曲エルナニの初演が旧来の規則を守る側と壊す側の衝突(エルナニ合戦)に発展したことは、この闘争を象徴する事件になった。

ユゴーは長く生き、静観詩集で娘の死を悼み、諸世紀の伝説で人類の歴史を叙事詩に構想した。十九世紀のフランス詩は、まずユゴーという巨大な存在を軸に回る。

19世紀後半 — 高踏派から象徴主義へ

ロマン主義の感情の吐露は、やがて反動を招く。ルコント・ド・リールを領袖とするは、詩人が自分の感情を語ることを弱さとみなした。古代やインドの神話、熱帯の獣を主題に、彫刻を刻むような客観的で完成度の高い詩を掲げる。

その一方で、まったく別の道を開いたのがボードレールである。悪の華(1857年)は、都市の醜さや悪徳を詩の主題に据え、同時に、事物を別の何かの記号とみなす見方を示した。詩篇「万物照応」では、香りと色と音が互いに呼び合う。ここから象徴主義が始まる。

さらにボードレールは、韻も音数も持たない散文で書いた詩集パリの憂鬱を残した。詩を定型から切り離すという決定的な一歩が、ここで踏み出されている。

続く三人が象徴主義を推し進めた。

ヴェルレーヌは「何よりもまず音楽を」と説き、意味より響きを優先した。そのために、十二音節のような偶数ではなく、七音節・九音節といった奇数の行を好む。偶数だと中央できれいに割れて安定するが、奇数は割り切れず、輪郭がぼやける。韻もわざと弱い組み合わせを選んだ。規則を捨てるのではなく、効き目を薄めて曖昧にするやり方である。

その効果は音の重なりに表れる。言葉なき恋歌の一篇は「わが心に涙ふる/街に雨のふるごとく」と始まるが、原文では「泣く(pleure)」と「降る(pleut)」がほとんど同じ音で、繰り返し響き合う。心の中の涙と、外の街の雨との区別が、音の上で溶けていく。

ランボーは感覚を意識的に狂わせて未知へ達すると宣言し(地獄の季節イリュミナシオン)、二十歳前後で文学そのものを捨てた。

到達点がマラルメである。事物の名を言わず、それが呼び起こす効果だけで詩を組み立てる。花と言う代わりに、どの花束にも無い花の観念が立ち上がるように書く、という趣旨のことを述べている。そのため詩は一読して意味が取りにくい。晩年の骰子一擲では、活字の大小を変え、語を頁のあちこちに散らして、印刷された頁そのものを楽譜のように使った。空白もまた、音の途切れとして読ませようとしたのである。

1880年代にはが現れる。音節数も脚韻も定めない詩で、アレクサンドラン以来の枠組みがついに外された。ロートレアモンマルドロールの歌は当時ほとんど読まれなかったが、無関係なイメージを衝突させるその手法が、後に大きな意味を持つ。

20世紀 — 前衛と、日常の言葉

二十世紀の詩はアポリネールから始まる。アルコール(1913年)で句読点をすべて廃し、伝統的な韻律の中に飛行機やエッフェル塔を置いた。続くカリグラムでは、文字を雨や噴水の形に組み、詩を見るものにした。「シュルレアリスム」という語を作ったのもこの詩人である。

文字を鳩と噴水の形に組んだ詩の頁。上部は翼を広げた鳩、下部は水が噴き上がって落ちる曲線として語が並ぶ。
アポリネール「刺し貫かれた鳩と噴水」。戦地へ去った友の名が、鳩と噴水の形に並ぶ(『カリグラム』1918年)。

その語を受け継いだブルトンが、1924年にシュルレアリスムを旗揚げする。理性の見張りを外して湧いてくるままに書く自動記述を掲げ、エリュアールアラゴンらが加わった。先駆として仰がれたのが、ランボーとロートレアモンである。

一方、伝統の側に立ったのがヴァレリーである。マラルメに学びながら、厳格な定型で知性の運動を詩にした。詩集『魅惑』の「海辺の墓地」は、アレクサンドランではなく十音節の行で書かれた長詩で、二十世紀の定型詩の代表とされる。

第二次大戦後、詩は大きく二つの方向へ分かれた。

一つは、言葉そのものを問う難解な方向である。ルネ・シャールは、対独レジスタンスに身を投じた経験を、断章のように短く切り詰めた詩に刻んだ。説明を削ぎ落とすため、一行が格言のように立つ。フランシス・ポンジュはまったく違う道を選び、石鹸、牡蠣、蝋燭といったありふれた物を、一つずつ執拗に描写する詩を書いた。人間の感情を物に託すのではなく、物を物として言葉で捉え直そうとする試みである。

もう一つが、話し言葉で誰にでも届く詩である。プレヴェールの詩集『パロール』(1946年)は詩集として異例の部数で読まれ、多くがシャンソンとして歌われた。同じ時代に、読者を選ぶ詩と、誰にでも届く詩とが並び立ったことになる。

規則を作り、壊し続けた歴史

最後に、フランス詩を他の国と比べたときに際立つ点を挙げておく。

日本の詩歌が五七の音数を千三百年保ち続け、近代化のあとも俳句と短歌が現役で残ったのに対し、フランス詩は規則を確立し、それを壊し、また別の規則を立てるという運動を繰り返してきた。マレルブが定めた規範をユゴーが揺さぶり、ヴェルレーヌが緩め、自由詩が撤廃し、そのあとでヴァレリーがあえて定型に戻る。

もう一つの特徴が、理論と実作が常に対になっていることである。デュ・ベレーの『擁護と顕揚』、ボワローの『詩法』、ヴェルレーヌの「詩法」、ブルトンの『宣言』——新しい詩は、ほぼ必ず宣言文を伴って現れた。何を目指すかを言葉にし、それを掲げて集団で動く。この習慣が、フランスに次々と文芸思潮を生み出させた原動力でもある。