プレイヤード派とは? フランス語を鍛えたルネサンスの詩人集団

発祥
フランス
年代
1549–1585
主な国
フランス

プレイヤード派は、16世紀半ばのフランスに現れた、七人の詩人からなる集団である。中心はロンサールデュ・ベレー。まだ未熟とみなされていたフランス語を、古代ギリシャ・ローマやイタリアの詩に倣って鍛え上げ、俗語による本格的な詩を築こうとした。名は、古代アレクサンドリアにいた七人の詩人になぞらえ、夜空の七つ星(プレイアデス=すばる)から取られている。

背景 — 俗語で高い詩は書けるか

16世紀のフランスでは、学問や格の高い詩はラテン語で書くのが当然とされ、フランス語は日常のための劣った言葉と見られていた。書き手にとって、自国語で書くことは、格を下げる選択だったのである。

だが同じ頃、ルネサンス人文主義が古代の原典への回帰を進め、イタリアではすでにダンテやペトラルカが俗語で高い詩を残していた。とりわけペトラルカがイタリア語で書いたソネットは、ヨーロッパ中の詩人の手本になっていた。フランス語でも同じことができるはずだ——プレイヤード派は、この確信から出発する。

さらに国王フランソワ1世が1539年、裁判や行政の文書をラテン語ではなくフランス語で書くよう定めていた。自国語の地位を高めようとする流れが、国の側にもあったことになる。

綱領 — 『フランス語の擁護と顕揚』

1549年、デュ・ベレーが発表した『フランス語の擁護と顕揚』が、集団の綱領になった。フランス語は生まれつき劣っているのではなく、まだ耕されていない土地のようなものだ、と説く。手を入れて育てれば、豊かな実りをもたらす。

具体的には三つを説いた。第一に、古代やイタリアの優れた作品を模倣すること。ただしそれは、そのまま真似ることではなく、他国の養分を取り込んで自国語の血肉に変えることを指す。第二に、語彙を増やすこと。古語を蘇らせ、専門用語を取り入れ、必要なら新しい語を作る。第三に、それまで流行していた軽い遊戯的な詩形を捨て、ソネットやオード(頌歌)といった、古代とイタリアに範をとる格の高い形式で書くこと。

代表作 — 何をフランス語に持ち込んだか

ロンサールは、この綱領を実作で示した中心人物である。恋人に寄せる連作『カサンドルへの恋』『エレーヌへのソネット』では、イタリア由来のソネットをフランス語に定着させた。エレーヌに寄せた一篇「あなたが年老いて、夕べ、蝋燭のもとで」は、老いた日にこの詩を思い出すだろうと恋人に語りかけ、時の移ろいと詩の永続を重ねる。「愛する人よ、見に行こう、あの薔薇を」で知られる詩も、朝に咲いて夕に散る薔薇に人の若さを重ね、いま生きよと促す。古代ローマの詩から受け継いだ主題を、フランス語の調べで歌い直したものである。

デュ・ベレーは、綱領を書いた理論家であると同時に、優れた詩人でもあった。ローマに滞在した経験から生まれた詩集『哀惜』では、廃墟となった古代ローマへの感慨と、故郷アンジューへの郷愁を、率直な調子で歌っている。理想を高く掲げた綱領とは対照的に、望郷や失意といった等身大の感情を書いた点が、今日では高く評価されている。

「七人」という数は動く

注意しておきたい点がある。プレイヤード派は、七人と称されながら、その顔ぶれは一定しない。ロンサール自身が生涯のうちに何度か名簿を入れ替えており、誰を数えるかは時期によって違う。当初は別の名前で呼ばれ、後にプレイヤードの名が定着した経緯もある。

つまりこれは、規約を持つ団体というより、同じ理念を分け合った詩人たちのゆるやかな集まりだった。文学史では便宜上「七人の集団」として扱われるが、固定した会員名簿があったわけではない。

後世への影響

プレイヤード派は、フランス語による詩の水準を一段引き上げ、俗語でも古典に並ぶ文学が書けることを実証した。ソネットやオードといった形式をフランス語に根づかせた功績も大きい。この成果が、次の世紀の古典主義がフランス語を洗練の極みへ導く土台になった。

もっとも、17世紀に入ると評価は反転する。ロンサールらが増やした語彙や凝った技巧は「過剰」「粗野」として整理・抑制され、古典主義の批評家からは乗り越えられた過去として扱われた。ふたたび高く評価されるのは、感情と個人を重んじる19世紀のロマン主義が、その豊かな抒情を再発見してからである。同じ作品が、時代の美意識によって評価を上下させた例といえる。

この思潮の作家

フランス