啓蒙思想とは? 理性で社会を批判し、改良しようとした18世紀の文学
- 発祥
- フランス
- 年代
- 1700–1800
啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパで、理性を頼りに偏見と迷信を退け、社会を批判して改良しようとした思想・文学の運動である。この時代、書くことの目的が変わった。文学が、体制を批判し世の中を変えるための道具になる。
背景 — すべてを理性にかけて問い直す
土台になったのは、17世紀の科学の成功である。ニュートンらが、自然を、神の意思ではなく理性と観察によって法則として説明してみせた。ならば同じ方法を、社会や宗教や慣習にも向けられるはずだ、と18世紀の書き手は考える。神が定めたから、昔からそうだから、という理由で通ってきた制度を、理性の光にかざして、理にかなうかどうかを一つずつ問い直す。これが「啓蒙」——闇に光をあてる、という言葉の意味である。
もう一つ、本を読む層が広がっていた。都市にサロンやカフェができ、新聞や事典が普及し、読んで議論する公衆が育つ。書いたものが世論を動かせるようになったことが、文学を体制批判の武器に変えた。
検閲をかいくぐる技術
とはいえ、書いたものが罪に問われる時代でもあった。出版は国家の許可制で、危険な本は無許可でオランダやスイスの印刷所で刷られ、密輸された。この条件が文体を決めている。正面から言えないから、遠回りに批判する技術が発達した。
- 外国人の目を借りる。モンテスキューのペルシア人の手紙は、パリを訪れたペルシア人が故郷へ送る手紙という形をとり、フランスの慣習を奇妙な風習として描いてみせた
- 笑い話にまぎれ込ませる。ヴォルテールのカンディードは、軽い調子の冒険物語で主人公に次々と災難を浴びせ続け、「この世は最善にできている」という当時の楽天論を笑いのめした
- 事典の体裁に隠す。ディドロらの『百科全書』は、項目の並べ方と、一見無関係な項目どうしを結ぶ相互参照によって、検閲を逃れながら批判を忍び込ませた

ヴォルテールとカラス事件
ヴォルテールは、新教徒であるがゆえに冤罪で処刑された商人(カラス事件)の名誉回復のため、三年をかけて世論を動かし、判決を覆させた。作家が自分の名声を賭けて、具体的な司法の不正と戦う——この型がここで生まれる。1世紀後のゾラによるドレフュス事件への介入(自然主義)は、この系譜の上にある。
啓蒙のなかのルソー
ルソーは、啓蒙の陣営にいながら一人だけ方向が違った。理性と文明が人間を良くするという前提を、共有していない。学問や芸術の進歩はむしろ人間を堕落させたと論じ、ヴォルテールと激しく対立した。
社会契約論はフランス革命の理論的な源泉の一つになった。同時にルソーは告白で、自分の恥ずべき過去まで包み隠さず書くと宣言する。自分自身の内面を書くことが文学の主題になりうる——この発想は、次の世紀のロマン主義へ直結する。啓蒙の内側から、啓蒙への反動が芽を出したことになる。
イギリスとドイツの啓蒙
イギリスではスウィフトがガリヴァー旅行記で、人間という種そのものを痛烈に諷刺した。ジョンソンは『英語辞典』をほぼ独力で編み、英語の規範を定めている。ドイツではレッシングが宗教的な寛容を説き、ヘルダーが、民族にはそれぞれ固有の言語と精神があるという考えを示した。ヘルダーのこの発想は、次の世代のロマン主義と国民文学の考え方の源になった。
後世への影響
理性で社会を問い直す啓蒙の思想は、1789年のフランス革命に流れ込み、近代の政治の土台になった。文学の側にも、二つの大きな遺産を残している。作家が実名で具体的な不正と戦うという型と、ルソーが開いた、自分自身の内面を書くという主題である。前者は19世紀の社会派の作家へ、後者はロマン主義へと受け継がれていく。