言葉なき恋歌

原題
Romances sans paroles
作者
ポール・ヴェルレーヌ
成立
1874
フランス
時代
19世紀

概要

1874年に刊行された詩集である。二十一篇を収める。ヴェルレーヌがこれをまとめたとき、ベルギーの監獄にいた。

題はメンデルスゾーンのピアノ曲集『無言歌』による。歌詞のない歌、という意味である。

内容は四つの部分に分かれる。「忘れられた小唄」「ベルギーの風景」「水彩画」、そして数篇の独立した詩である。

書かれた場所は、ロンドン、ブリュッセル、ベルギーの田舎、そして監獄にわたる。1872年から翌年にかけて、ヴェルレーヌはランボーと各地を移動していた。

詩の内容には、この移動と、そこで起きたことが直接には出てこない。書かれるのは、雨、運河、平野、街の音といった外の情景と、名づけられない感情である。

1871年9月、ランボーがシャルルヴィルからパリに出てきた。十七歳。ヴェルレーヌは二十七歳で、その年に結婚したばかり、妻は臨月だった。ヴェルレーヌが招いた形になる。

二人はまもなく一緒に過ごすようになる。周囲の非難、妻との衝突が続いた。1872年7月、ヴェルレーヌは妻子を捨て、ランボーとベルギー、続いてロンドンへ渡る。定収入はなく、フランス語を教えて食いつないだ。

関係は依存と反発を繰り返し、暴力を伴った。1873年7月、滞在先のブリュッセルでランボーが別れを告げる。ヴェルレーヌは拳銃を買い、酔って二発撃った。一発がランボーの左手首に当たった。

ヴェルレーヌは逮捕された。傷は軽く、ランボーは告訴を取り下げたが、裁判所は禁錮二年の判決を下した。判決が重かった背景に、警察が二人の関係を調べ、医師の診察まで行った経緯がある。

ヴェルレーヌはモンスの監獄で服役した。詩集の刊行は1874年で、まだ獄中にいた。発行部数は少なく、ほとんど注目されなかった。

獄中でヴェルレーヌはカトリックの信仰に戻る。その体験から次の詩集叡智が生まれる。

ランボーはこの事件の後、実家で地獄の季節を書き上げ、まもなく詩を書くのをやめた。

文学史における評価と影響

ヴェルレーヌの最高傑作とする評価が多い。詩法が最も純粋な形で現れているとされる。

音の扱いが中心にある。ヴェルレーヌは意味の明確さを犠牲にしても響きを優先した。とくに奇数音節の詩行を多用する。フランス詩の伝統では偶数音節、なかでも十二音節が基本で、奇数は破格にあたる。奇数だと行が均等に割れず、落ち着かないリズムになる。

この方針は後に、詩「詩法」で定式化される。何よりもまず音楽を、そのためには奇数の音節を選べ、という主張である。

外の風景と内の感情を区別しない書き方も特徴にあたる。街に降る雨と心に降る涙が、同じ一つの状態として書かれる。事物を名指して感情を説明するのではなく、両者の境目を消す。この姿勢が、1880年代後半に自称され始める象徴派の詩法につながる。

同時代の絵画との対応も指摘される。この詩集が書かれた1872年から73年は、印象派が最初の展覧会を準備していた時期にあたる。輪郭をぼかして印象だけを残す点で、方向が重なる。

日本への影響も大きい。1905年、上田敏の『海潮音』にヴェルレーヌの訳が入り、以後、堀口大學ら複数の訳者が訳している。理由の分からない憂愁という主題は、日本の近代詩に繰り返し現れた。

内容

「忘れられた小唄」が最初に置かれ、九篇からなる。

第一篇は「それはけだるい恍惚」と始まる。風にそよぐ草、水のざわめきといった微かな音のうちに、感情が溶かし込まれる。

第三篇が最もよく知られる。「巷に雨の降るごとく」の題で通っているが、原詩の冒頭は「私の心に涙が降る、街に雨が降るように」にあたる。

心に降る涙と、街に降る雨が重ねられる。詩人は悲しみの理由を探す。裏切りもない。憎しみもない。それなのに悲しい。最後の聯で、理由が分からないことが最も苦しい、と述べられる。

フランス語の原詩では、泣くを意味する pleure と、雨が降るを意味する pleut がほとんど同じ形をしている。この二語を並べることで、心の状態と街の天候の区別が消える。日本語ではこの効果が写せないため、訳者ごとに扱いが異なる。

「ベルギーの風景」では、移動の途上で見た平野、運河、水車、風車が素描される。輪郭は書き込まれず、印象だけが残される。

「水彩画」では、ロンドンとテムズ川の情景が扱われる。異国での孤独が重なる。英語の題を持つ詩が数篇含まれる。

作者

登場する文学史