パリの憂鬱
- 原題
- Le Spleen de Paris
- 作者
- シャルル・ボードレール
- 成立
- 1869
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
概要
詩集でありながら、詩の形をしていない本である。行を折り返さず、韻も踏まない。ページの上では、数行から数ページの短い散文が五十篇並んでいるだけに見える。
当時のフランスで、詩とは韻を踏み、決まった音数で書くものだった。ボードレールはその両方をやめ、それでもこれは詩だと主張した。この試みによって散文詩という形式が定着し、以後の詩の書き方が変わる。
書かれているのはパリの街である。老婆、大道芸人、乞食、道化、窓の向こうに見える他人、カフェの外から店内を見る貧しい親子。多くは短い逸話か会話の形をとる。同じ作者の悪の華と主題は重なるが、あちらが構成を持つ一冊であるのに対し、こちらはどこから読んでもよい造りになっている。
死後の1869年に刊行された。
ボードレールは1857年に悪の華を刊行し、その年のうちに公序良俗に反するとして起訴され、罰金と六篇の削除を命じられた。散文詩の発表はその前後から始まる。
先行する試みとして、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』がある。1842年に死後刊行された散文の作品集で、ボードレールは献辞でこの本を読んで着想を得たと述べている。ただし、ベルトランが中世の情景を扱ったのに対し、ボードレールは同時代の大都市を扱った。
執筆の時期は、パリが大きく作り変えられていた時期にあたる。1853年から、セーヌ県知事オスマンによる改造が進み、古い街区が壊され、幅の広い直線の大通りが通された。作中の「貧しい人々の目」に出てくる新しい大通りとカフェは、この改造による。
ボードレールは1866年に発作で倒れ、言葉を失った。翌1867年に四十六歳で死去する。散文詩集は友人たちの手で整理され、1869年の全集に収められた。配列はボードレール自身が決めたものではない。
文学史における評価と影響
散文詩という形式が、この作品によって定着した。それ以前、詩は韻と律を持つものとされていた。ボードレールは、詩を詩たらしめるものを韻律から切り離した。
献辞に書かれた理由は具体的である。大都市に住み、その交錯を書こうとすると、定型では追いつかない。形式が内容から要請されている。
構成を持たない点も明示されている。どこから読んでもよく、どこで切ってもよい。全体で一つの構造を作る悪の華とは、この点で対照的にあたる。
都市を主題とした点も、後の詩に影響した。街を歩き、見知らぬ人を観察し、その生涯を想像する。この態度は、20世紀に入ってベンヤミンが「遊歩者」として論じ、都市論の枠組みになった。
ランボーのイリュミナシオンは、この形式を受け継いでさらに遠くまで進めたものにあたる。以後、散文詩は20世紀の詩の主要な形式の一つになる。
日本でも早くから訳され、萩原朔太郎をはじめとする詩人に影響を与えた。散文で書かれた詩という形式そのものが、日本の近代詩に持ち込まれている。
内容
冒頭に、詩人アルセーヌ・ウーセに宛てた献辞が置かれる。ここでボードレールは、自分が何をしようとしているかを述べる。
韻も律もない詩的な散文。魂の動きと、意識の波打ちと、良心の身振りに沿えるほど、しなやかで、途切れやすいもの。そして、この着想は大都市に住むことから生まれた、と書かれる。
続けて、この本には筋がないので、どこから読み始めても、どこで切っても構わないと断っている。
「異邦人」が第一篇にあたる。問答の形をとる。父は、母は、姉妹は、友人は、祖国は、美は、金は、と次々に尋ねられ、そのすべてに持たない、知らない、憎むと答える。最後に、では何が好きなのかと問われて、雲が好きだ、あそこを流れていく雲が、と答える。
「群衆」では、群衆の中に入り込むことが、詩人にとっての酔いとして扱われる。誰にでもなれる状態が書かれる。
「窓」では、外から他人の窓を見る。開いた窓より、閉じた窓の向こうのほうが多くを含んでいると述べられる。そこに見えるものから、語り手はその人物の生涯を作り上げる。それが本当かどうかは問題ではない、と続く。
「貧しい人々の目」では、新しく開いた大通りのカフェに、恋人と座っている。外に、粗末な身なりの父と二人の子が立ち、まぶしそうに店の中を見ている。語り手はそれを見て心が動くが、連れの女は、あの人たちを追い払ってほしいと言う。二人の距離がそこで確定する。
「めぐりあわせ」では、パリの改造で新しくなった街の様子が扱われる。
「善良な犬たち」では、血統書のある犬ではなく、泥にまみれた野良犬が主題になる。
「酔いたまえ」では、時間に打ちのめされないために、常に酔っていなければならないと述べられる。酒でも詩でも徳でも構わない、と続く。