ポール・ヴァレリー

原綴
Paul Valéry
生没
1871–1945
出身
南フランス・セート(エロー県)
フランス
時代
20世紀以降

生涯

1871年、地中海に面した南フランスの港町セート(エロー県)に生まれた。青年期に詩人マラルメを知り、その象徴主義の詩に深く傾倒した。だが二十歳のころ、精神の危機を経て、詩を書くことをほとんどやめてしまう。

以後、二十年あまり、公にはほとんど詩を発表しなかった。この沈黙の時期、ヴァレリーは毎朝早く起き、自らの精神の働きそのものを観察し、厖大な思索の記録(『カイエ』と呼ばれる手帖)をつづり続けた。詩人としてではなく、思考する人間として生きた歳月である。

四十代なかば、長篇詩『若きパルク』を発表して、詩人として劇的に復帰した。以後、詩と評論の両面で名声を高め、フランスの知性を代表する存在となった。アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれた。1945年、パリ解放の直後に没した。

作風

ヴァレリーの詩は、きわめて精緻に磨き上げられている。師マラルメの象徴主義を受け継ぎ、言葉の音楽性と、厳密な形式を極限まで追求した。一篇の詩を、何年もかけて彫琢する。感情の吐露ではなく、知性による構築物として、詩をつくり上げた。

その詩と思索の中心には、意識と精神の働きへの、飽くなき関心がある。人が何かを考え、感じ、創造するとき、心のなかで何が起きているのか。ヴァレリーは、この精神の運動そのものを見つめ続けた。詩は、その思考の探究が結晶した形にほかならない。

散文の思索家としても第一級だった。詩論、文明論、対話篇など、明晰な散文で、芸術や精神、歴史について考察した。詩人であると同時に、二十世紀を代表する知性の一人だった。

作品

『若きパルク(La Jeune Parque)』(1917年)

長い沈黙を破って発表された、難解な長篇詩である。目覚めゆく一人の女性(運命の女神パルク)の意識の流れを、精緻な韻文でたどる。意識が生まれ、揺れ動くさまそのものを詩にした、ヴァレリーの代表作にあたる。

『魅惑(Charmes)』(1922年)

「海辺の墓地(Le Cimetière marin)」を含む詩集である。地中海の墓地を前に、生と死、存在と虚無をめぐる思索をうたったこの詩は、フランス近代詩の名篇とされる。

思索の記録『カイエ』や、多くの評論も、ヴァレリーの重要な仕事である。

文学史における立ち位置と影響

ヴァレリーは、象徴主義を受け継ぎ、それを知性の詩へと結晶させた詩人として文学史に名を残す。マラルメが切り開いた、言葉と形式を極限まで磨く純粋詩の理想を、二十世紀に受け継ぎ、完成させた点に、その位置がある。

詩人にとどまらず、思想家としても大きな影響を残した。精神の働きを見つめるその思索は、文学の枠を越えて、二十世紀前半のフランスの知性を代表するものとなった。芸術・文明・歴史をめぐるその明晰な考察は、今日も参照され続けている。

厳密な形式と、透徹した知性を両立させたその仕事は、感情や自動記述を重んじる同時代のシュルレアリスムとは対極にあった。知性による構築という詩の理想の、最も純粋な体現者とされている。

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