フランソワ・ド・マレルブ

原綴
François de Malherbe
生没
1555–1628
出身
ノルマンディー地方カン
フランス
時代
17世紀

生涯

1555年、ノルマンディーのカンに生まれた。前半生はプロヴァンスで過ごし、詩人として世に出たのは遅い。五十歳を過ぎた1605年、国王アンリ4世に認められて宮廷詩人となり、そこから急速に権威を得た。

宮廷にあって、詩の言葉はどうあるべきかを厳しく説いた。若い詩人たちを集め、語法の誤りや調子の乱れを容赦なく指摘したという。1628年に没するまで、その規範は宮廷とアカデミーの周辺で決定的な力を持ち続けた。

作風

マレルブが目指したのは、誰にでも通じる明晰さである。前の世代のプレイヤード派——ロンサールらが、語彙を増やし、ギリシャ・ラテン由来の語や方言を大胆に持ち込んだのに対し、マレルブはそれを混乱とみなした。

そこで課したのが規則である。詩に使ってよい語を、教養ある人々に共通して通じるものに限る。行の途中の切れ目(休止)の位置を定め、母音が続いて響きを濁す形を避け、脚韻を正確に踏む。技巧を凝らすよりも、無駄なく整った一行を作ることを重んじた。

作品数は多くない。国王の即位や貴人の死といった公の機会に寄せる頌歌(オード)や、慰めの詩を中心とする。

作品

「デュペリエ氏へのなぐさめ」は、幼い娘を亡くした友人にあてた詩である。「そして彼女は、薔薇の花が生きるほどの時間、朝の間だけ生きた」という一節が広く知られる。悲しみを激しく訴えるのではなく、抑えた言葉で人の生の短さを差し出す。

そのほか、国王を讃えるオードや、詩篇の翻案を残した。作品の多くは死後の1630年に刊行された。

文学史における立ち位置と影響

マレルブは、フランス詩の言葉を整理し、規範を与えた人物として位置づけられる。次の世代のボワローが『詩法』で「ついにマレルブが来た」と書き、彼をもって混乱の時代が終わったと宣言したことで、その評価は決定的になった。

この規範が古典主義の詩の土台になり、以後二百年にわたってフランス詩を律する。1635年に設立されたアカデミー・フランセーズによる言語の管理も、同じ方向にある。

一方で、失ったものも指摘される。ロンサールらの豊かな語彙と自由な想像力は切り詰められた。19世紀のロマン主義が規則の破壊を掲げたとき、まさにこのマレルブ以来の規範が乗り越えるべき相手として立ちはだかることになる。

登場する文学史