ポール・ヴェルレーヌ

禿頭に豊かなあごひげをたくわえ、模様のスカーフを巻いたポール・ヴェルレーヌの肖像写真。
オットー・ウェゲナー撮影
原綴
Paul Verlaine
生没
1844–1896
出身
モーゼル県メス
フランス
時代
19世紀

生涯

1844年、陸軍将校の家に生まれ、パリで育った。パリ市庁に勤めながら詩を書き、1866年に第一詩集を出す。1870年にマチルド・モーテと結婚し、翌年に息子が生まれた。ここまでは職と家庭のある生活である。

1871年9月、北仏シャルルヴィルの16歳の少年から手紙が届いた。アルチュール・ランボーという名で、詩が同封されていた。当時は無名だが、数年のうちにフランス詩を大きく変えることになる書き手である。ヴェルレーヌは才能を認め、パリに呼び寄せた。ランボーは妻の実家に同居し、粗暴な振る舞いで周囲と衝突する。家庭は急速に壊れ、妻は別居を求めた。

翌1872年、二人は家を出てロンドンへ渡る。定収入はなく、フランス語を教えて食いつないだ。関係は依存と反発を繰り返し、暴力を伴う。ヴェルレーヌの酒量が増えた。

1873年7月、滞在先のブリュッセルでランボーが別れを告げる。引き止められないと悟ったヴェルレーヌは拳銃を買い、酔って二発撃った。一発がランボーの手首に当たる。ランボーは一度告訴を取り下げたが捜査は続き、当時のヨーロッパで犯罪とされていた男性同士の関係が明るみに出たことも重なって、禁錮2年が言い渡された。服役は1年半に及ぶ。

獄中でカトリックに回心した。出獄後はイギリスとフランスで教職に就くが長続きせず、以後は酒と貧窮のうちに過ごす。詩人としての評価だけは上がり続け、1894年には、詩人たちの投票で選ばれる名誉職「詩王」に就いた。生活は最後まで立て直せないまま、1896年にパリで死去した。

作風

ヴェルレーヌは「何よりもまず音楽を」と書いた。1874年の詩「詩法(Art poétique)」の一行で、詩は意味を正確に伝えるものだという考えに対して、音の連なりと余韻を優先すると宣言している。

この詩自体が主張を実演している。9音節で書かれているのである。フランス詩は行の音節数を数えて作り、12音節や8音節といった偶数が基本である。9音節のような奇数は座りが悪く、行の終わりが決まらない感じが残る。同じ詩で押韻を弱めることも説き、「雄弁の首をひねれ」と書いた。

心の状態は、外の風景の描写に置き換えられる。言葉なき恋歌の一篇は「わが心に涙ふる/街に雨の降るごとく」(Il pleure dans mon cœur / Comme il pleut sur la ville)と始まる。泣く(pleure)と雨が降る(pleut)というほとんど同じ形の語を並べ、心と街の区別を消している。なぜ悲しいのかは最後まで書かれない。

音を先に立てる書き方も同様である。「秋の歌(Chanson d'automne)」の冒頭は、短い行を三つ重ね、行末に同じ鼻母音を並べる。意味より先に音の反復が来る。上田敏が「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの」と訳したのは、この音の連なりを日本語に移そうとしたものである。

作品

土星人の歌(1866年)

第一詩集である。憂鬱と倦怠を主題にし、「秋の歌」を収める。

艶なる宴(1869年)

18世紀の宮廷風俗を描いたロココ絵画を題材にした詩集である。仮面をつけた男女、庭園、月光——絵の中の情景を借りることで、自分の心情を直接語らずに済ませている。ドビュッシーが「月の光」ほか複数の曲をここから作った。

よき歌(1870年)

婚約中のマチルドに宛てた詩集である。

言葉なき恋歌(1874年)

代表作とされる。ランボーとの放浪から獄中期にかけて書かれ、音を重ねる手法が最も徹底している。題は「歌詞のない歌」の意で、メンデルスゾーンの同名のピアノ曲集から取られた。

叡智(1881年)

回心後の詩集で、宗教的な主題が前面に出る。

呪われた詩人たち(1884年)

詩集ではなく評論である。当時ほとんど知られていなかったランボー、マラルメ、トリスタン・コルビエールら6人を論じた。

文学史における立ち位置と影響

19世紀後半のフランスに、象徴主義と呼ばれる詩の動きがあった。事物をそのまま描写するのではなく、暗示によって心の状態を喚起しようとする立場である。悪の華ボードレールを出発点とし、ヴェルレーヌはそのなかで音楽性の側面を代表する。同じ象徴主義でも、同時代のマラルメが語の配置と構文の実験に向かったのに対し、ヴェルレーヌは音と情調に寄った。

フランス詩の定型を、内側から緩めた点も重要である。定型を捨てたのではない。音節は数えるし、韻も踏む。そのうえで音節数を奇数にし、韻を弱い組み合わせにして、規則が効いている感じを薄めた。定型詩と、音節も韻も持たない自由詩との間に中間の段階を作ったことになり、次の世代が定型を離れる下地になった。

呪われた詩人たちの影響は、本人の詩に劣らない。ランボーはこの時すでに詩を捨ててアフリカへ渡っており、マラルメも一部の読者にしか知られていなかった。この評論が両者を文学史に据え直したのである。

作曲された数の多さも特徴である。フォーレ、ドビュッシー、レイナルド・アーンらが繰り返し曲をつけた。フランス歌曲でこれほど扱われた詩人は少なく、音楽性を掲げた詩論が音楽の側から応答された形になっている。

日本の近代詩への影響はとくに大きい。上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の「落葉」(「秋の歌」の訳)が広く読まれ、その後も堀口大學らが訳した。日本語で音の効果を意識した詩を書く流れの背景にあり、萩原朔太郎の口語自由詩もこの受容の延長に位置づけられる。

作品

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