ローマ文学史
ローマ文学には、他の国の文学史にない前提が二つある。
一つは、模倣から始まったことを自覚していたという点である。ギリシャという圧倒的な先行者があり、ローマの書き手はそれを翻訳し、模倣し、そこから自分の形を作ろうとした。この意識は作品の中で繰り返し語られている。
もう一つは、帝国が滅んだ後も言語が生き延びたという点である。ラテン語はローマの死後、千年以上にわたってヨーロッパ全体の学問・宗教・行政の書き言葉であり続けた。だからこの文学史は、一つの国の物語ではなく、ヨーロッパ全体の書き言葉の物語でもある。
実際、他国の文学史の中にその痕跡がある。イギリスのトマス・モアが『ユートピア』をラテン語で書いたこと、フランスのデュ・ベレーがラテン語から離脱すべきだと宣言したこと。各国の文学は「ラテン語から独立する」という形で自分を定義した。 その対象がここにある。
共和政期 — ギリシャを取り込む
最初期の文学は、ギリシャ作品の翻訳と翻案から始まった。プラウトゥスとテレンティウスの喜劇は、ギリシャのメナンドロスらの作品を下敷きにしている。
ただし単なる模倣ではない。 プラウトゥスは筋を崩し、歌を増やし、ローマの観客に合わせて作り変えた。この二人の喜劇は、後にルネサンス以降のヨーロッパ演劇に受け継がれ、ウィリアム・シェイクスピアやモリエールの作品にも影響を残している。
散文で決定的な役割を果たしたのがキケロである。ラテン語の散文の規範を作ったと言ってよい。弁論、書簡、哲学的な対話篇を膨大に残し、その文体は後の時代に「正しいラテン語」の基準になった。ルネサンスの人文主義者がキケロを模範としたことで、この規範はさらに千五百年生き延びる。
カエサルのガリア戦記は、簡潔な文体の模範として長く教材に使われてきた。ルクレティウスは物の本質についてで原子論の哲学を詩の形式で説き、カトゥルスは個人的な愛と憎しみを短い詩に刻んだ。
黄金期 — アウグストゥスの時代
前一世紀末、アウグストゥスの治世に、ラテン文学は頂点を迎える。
ウェルギリウスのアエネイスは、トロイア落城から逃れた英雄がローマ建国に至る叙事詩である。ホメロスのイリアスとオデュッセイアを意識的に踏まえ、それをローマの建国神話として書き直した。ギリシャに対する模倣であると同時に、対抗でもある。
この作品は以後のヨーロッパ文学の中心的な古典になった。ダンテ・アリギエーリは神曲で、ウェルギリウスを地獄と煉獄の案内人にしている。千三百年後の詩人が、自分の導き手として選んだことになる。
ホラティウスは抒情詩と諷刺詩を書き、詩論で詩の作法を論じた。この書はアリストテレスの詩学と並んで、ヨーロッパの詩論の二大源泉になる。
オウィディウスの変身物語は、変身をめぐる神話を集成した長篇詩である。ギリシャ・ローマ神話の知識の主要な供給源として、中世からルネサンス、近代に至るまでヨーロッパの芸術家が参照し続けた。絵画の主題の多くはこの書に由来する。
銀の時代 — 帝政下の文学
一世紀以降、文体は技巧的になり、主題は暗くなる。
セネカは哲学者であり、悲劇作家であり、ネロの教師でもあった。最後は皇帝から自死を命じられている。 彼の悲劇はギリシャ悲劇より残酷で修辞的であり、ルネサンス期のヨーロッパ演劇に強い影響を与えた。 シェイクスピアの初期の悲劇にその痕跡がある。
タキトゥスは年代記などで帝政初期の歴史を書いた。権力の腐敗を簡潔で鋭い文体で描き、後世の歴史叙述の模範とされる。
ペトロニウスのサテュリコンは、成り上がりの富豪の宴会などを描いた作品で、小説の先駆と見なされることがある。アプレイウスの黄金のろばはろばに変身した男の遍歴を描き、こちらも同様に扱われる。
ユウェナリスは諷刺詩でローマ社会を攻撃し、マルティアリスは短い警句詩を完成させた。マルクス・アウレリウスの自省録は皇帝自身の内省の記録で、ギリシャ語で書かれている点が示唆的である。
後期古代 — キリスト教とラテン語
四世紀以降、キリスト教が公認され、やがて国教になる。ラテン文学の性格が根本から変わった。
ヒエロニムスが聖書をラテン語に翻訳した(ウルガタ訳)。この訳が以後千年以上、西ヨーロッパの標準的な聖書になる。 翻訳という営みが、これほど長く一つの文明の土台であり続けた例は少ない。
アウグスティヌスの告白は、自分の罪と回心を神に語りかける形式で書かれた。自伝という形式のヨーロッパにおける出発点とされる。ジャン=ジャック・ルソーの『告白』(一七八二年)は、同じ題名を意識的に選んでいる。
ボエティウスは処刑を待つ獄中で哲学の慰めを書いた。古代の哲学とキリスト教を橋渡しした書物として、中世を通じて最も広く読まれた作品の一つになる。
中世ラテン文学 — 国境を越えた書き言葉
西ローマ帝国は滅んだが、ラテン語は死ななかった。
修道院で写本が作られ、大学で講義が行われ、教会の典礼が唱えられ、外交文書が交わされた。フランス人もイギリス人もドイツ人も、真面目な内容はラテン語で書いた。
アベラールは論理学と神学で名を成し、トマス・アクィナスは『神学大全』でアリストテレス哲学とキリスト教神学を統合した。同時に、放浪学生の歌のような世俗的で猥雑なラテン語詩も生まれている。
この状況を終わらせたのが、各国の俗語文学の勃興である。 ダンテ・アリギエーリが神曲をラテン語ではなくイタリア語で書いたこと(一三二一年)、ジョアシャン・デュ・ベレーがフランス語の擁護を宣言したこと(一五四九年)、これらはラテン語の支配からの独立宣言だった。
とはいえ完全に終わったわけではない。トマス・モアのユートピアは一五一六年にラテン語で書かれ、ニュートンの主著も一六八七年にラテン語である。科学と学問の言語としては、十八世紀まで生き続けた。
この先へ
ローマ文学の弧は、模倣から始まり、独自の達成に至り、そして言語だけが生き延びたという形をしている。
どこか一つに降りるなら黄金期から。ウェルギリウス・ホラティウス・オウィディウスという、後のヨーロッパ文学が最も繰り返し参照した三人が同時期にいる。
先行者はギリシャ、直接の後継者はイタリアである。ただしローマ=イタリアではない。 ラテン語文学とダンテ以降のイタリア語文学は、系譜として別のものである。