ホラティウス

- 原綴
- Quintus Horatius Flaccus
- 生没
- 前65–前8
- 出身
- ウェヌシア(南イタリア・現バジリカータ州ヴェノーザ)
- 国
- ローマ
- 時代
- 黄金期
生涯
前65年、南イタリアのウェヌシアに生まれた。父は解放奴隷、つまり奴隷だった身から自由になった人である。競売の仲介などで生計を立てながら、息子の教育に金をかけた。地元の学校で済ませず、わざわざローマへ出し、さらにアテネへ留学させている。この父への感謝を、ホラティウスは生涯にわたって詩に書いた。
アテネにいるあいだにカエサルが暗殺され、内乱が起きる。ホラティウスは共和政を守ろうとするブルートゥスの軍に加わり、将校としてフィリッピの戦いに参加した。共和派は敗れる。このとき盾を投げ捨てて逃げた、と本人が後の詩に書いている。名誉なこととは言えないが、それを笑い話にして自分から書く姿勢が、この詩人の特徴をよく表している。
敗残者としてローマに戻った。父はすでに亡く、家の財産も没収されていた。役所の下級書記として働きながら詩を書き始める。
その詩がウェルギリウスの目に留まった。ウェルギリウスはホラティウスをマエケナスに紹介する。皇帝アウグストゥスの側近で、当時最大のにあたる人物である。以後、生活の心配なく詩作に専念できるようになった。マエケナスから贈られたサビーニ地方の農園は、後半生の詩に繰り返し出てくる。
政治の中枢に近い場所にいながら、都会から離れた農園で過ごす、という暮らしを続けた。前8年、マエケナスの死の数か月後に死去している。五十六歳だった。
作風
抒情詩、諷刺詩、書簡の形をとった詩、詩の理論。書いた形式は幅広く、そのいずれでも完成度が高い。ローマ詩の完成者とされるのはこのためである。
『歌集』では、ギリシャの詩の形式をラテン語に移した。サッポーやアルカイオスが使った、行ごとに音の長短の並びが決まっている形式である。ラテン語はギリシャ語と語の作りが違うため、これをそのまま使うのは難しい。ホラティウスはそれを成し遂げ、以後ラテン語の抒情詩はこの型で書かれることになった。
主題は友情、酒、恋、季節の移り、そして人生の短さである。「カルペ・ディエム(今日を摘め)」の句はこの詩集にある。明日を当てにするな、目の前の一日を摘み取れ、という意味になる。ただし放埒に遊べという勧めではない。人生が短いと知ったうえで、その日をきちんと生きよ、という落ち着いた勧告にあたる。
「中庸」の考え方も詩の核にある。極端に走らず、多すぎず少なすぎない生き方をよしとする。貧しさも過剰な富も避けよ、という穏健な人生観が全体の基調になっている。
諷刺詩と書簡詩では、日常の話し言葉に近い調子で書く。人間の欠点を扱うが、怒りはしない。自分の欠点も同じように笑いの種にする。同じローマの諷刺詩でも、後のユウェナリスが激しく糾弾したのとは正反対で、角が立たない。この二つの型が、後の諷刺の分類の基準になった。
『詩論』は、詩の書き方を論じた書簡である。作品には統一が要ること、登場人物には身分にふさわしい言葉づかいをさせること、書いたものは九年寝かせてから世に出すこと。具体的な助言が並ぶ。「詩は絵のように」という一句や、詩は教えると同時に楽しませるべきだという主張は、後世に何度も引かれた。
作品
『諷刺詩(Saturae)』(前30年代)
初期の作品で、日常の人間模様を穏やかなとして描く。
『エポーディ(Epodi)』も初期の作品にあたる。より攻撃的な調子の詩を含む。
『歌集(Carmina)』(前23年、前13年)
抒情詩の代表作である。全4巻。ギリシャの詩形をラテン語で完成させた。「カルペ・ディエム」の句はこの第1巻にある。
『書簡詩(Epistulae)』
特定の相手に宛てた手紙の形をとる詩である。人生と文学について穏やかに語る。
『書簡詩』の一篇にあたる。ピソ家の人々に宛てた手紙という体裁で、詩の作り方を論じる。
日本語では抒情詩と詩論の訳がある。
文学史における立ち位置と影響
ウェルギリウスと並ぶローマ黄金期の代表的な詩人である。ウェルギリウスがの頂点なら、ホラティウスは抒情詩と詩論の頂点にあたる。
抒情詩は西洋の詩の規範になった。ギリシャの詩形をラテン語で完成させたことで、ラテン語しか読めなくなった後世のヨーロッパにも、その形式が伝わることになる。ルネサンス以降、各国の詩人はこの詩集に倣って頌詩を書いた。
「カルペ・ディエム」の考え方は、文学の一つの主題として定着した。人生の短さを見据えて今日を生きる、という言い方は、後の詩に繰り返し現れる。17世紀イギリスの詩に多く見られ、今日では映画や広告の文句にまで及んでいる。
詩論の影響はさらに大きい。ルネサンスから17世紀の古典主義まで、アリストテレスの『詩学』と並ぶ規範として扱われた。フランスのボワローの『詩法』は、この書簡を手本にして書かれている。詩がどうあるべきかという議論は、長いあいだこの二冊を土台にしていた。
その穏健な人生観は、教養層に長く愛された。詩の一句を引用できることが教養の証とされる時代が、ヨーロッパでは数百年続いた。
日本での受容は、ローマ文学への関心のなかで進んだ。「カルペ・ディエム」と詩論がとくに知られている。