哲学の慰め
- 原題
- De Consolatione Philosophiae
- 作者
- ボエティウス
- 成立
- 524頃
- 国
- ローマ
- 時代
- 後期古代
概要
524年前後、ボエティウスが反逆罪で投獄され、処刑を待つ間に書かれた。全5巻。
形式は対話篇である。獄中で自分の不運を嘆く「私」のもとに、擬人化された女性の姿をとった「哲学」が現れ、対話によって考えを正していく。散文の段落と韻文の詩が交互に置かれる構成で、これはメニッポス風諷刺と呼ばれる形式に由来する。詩は三十九篇あり、韻律も多様である。
扱われる主題は、幸運と不運、真の幸福とは何か、なぜ悪人が栄え善人が苦しむのか、そして神の予知と人間の自由意志は両立するか。
キリスト教への言及がない。著者はキリスト教徒であり、神学の著作も残しているが、この書の議論はプラトンとアリストテレスとストア派に依拠して進む。処刑を前にした人物が、信仰ではなく哲学に慰めを求めるという構図が、この作品の性格を決めている。
ボエティウスは480年頃、ローマの名門の生まれ。西ローマ帝国が滅んだ後のイタリアは、東ゴート王テオドリックの支配下にあった。ボエティウスはこの王に仕え、執政官を務め、二人の息子も同時に執政官になるという栄誉を得ている。
生涯の計画として、プラトンとアリストテレスの全著作をラテン語に翻訳し、両者が一致することを示すことを掲げていた。実際に完成したのはアリストテレスの論理学の一部にとどまる。この翻訳が、中世前期の西欧が知りえたアリストテレスのほぼすべてになった。
523年、元老院議員の反逆を弁護したことから、自らも反逆罪で告発された。東ローマ帝国と通じたという嫌疑である。裁判を経ずに投獄され、524年頃に処刑された。処刑の方法は残酷なものだったと伝えられる。
音楽論、算術論も残しており、中世の学問の基本教科書になった。
文学史における評価と影響
中世ヨーロッパで最も広く読まれた世俗の書物の一つである。古代の哲学と中世をつなぐ位置にあり、「最後のローマ人にして最初のスコラ学者」という評が定着している。
翻訳の歴史がその影響を示す。9世紀にアルフレッド大王が古英語に訳したとされ、チョーサーが中英語に、エリザベス一世が英語に訳している。各国語への翻訳が中世を通じて繰り返された。
内容の面では、フォルトゥナの車輪の観念が中世文学に浸透した。人の栄枯盛衰を車輪の回転で説明する図像は、写本の挿絵、大聖堂のばら窓、詩に繰り返し現れる。ダンテの神曲でも運命が論じられる。
哲学の内容としては、神の永遠を「無限の時間」ではなく「時間の外」と定義した点が、後のスコラ学に受け継がれた。トマス・アクィナスもこの定義を用いる。
キリスト教への言及がないことは、古くから論じられてきた。棄教したとする説はほぼ否定されており、この書が意図的に哲学の言葉だけで書かれたと考えるのが通説である。信仰を持つ者が、信仰に頼らずどこまで行けるかを試した書物として読まれてきた。
日本でも訳が読める。短く、対話形式のため読み進めやすい。
内容
第1巻。独房で、詩の女神たちに慰められながら自分の境遇を嘆いていると、威厳のある女性が現れる。「哲学」である。詩の女神たちを追い払い、この病人に必要なのは感傷ではなく治療だと告げる。「私」は自分の潔白と、告発の不当さを長く訴える。哲学は、まず病状を確かめると言い、世界が偶然に支配されていると思うかを問う。
第2巻。哲学は運命の女神フォルトゥナについて論じる。運命の車輪は回るものであり、それが本性である。 頂点に上げたものを落とすのは、契約違反ではなく、最初から分かっていた条件である。富、地位、権力、名声、快楽が順に検討され、いずれも本人の内にあるものではなく、失われうるものだと示される。
この巻に置かれた韻文の一つが、後世に最も引かれる。「フォルトゥナの車輪」の観念は、ここから中世ヨーロッパに広まった。
第3巻。前巻で偽の幸福が退けられたのを受けて、真の幸福が論じられる。人が求める富や名誉は、幸福の断片にすぎない。真の幸福は、それ以上何も欠けていない状態であり、それは一つの完全な善に他ならない。その善こそが神である、と結論される。ここでの議論は、プラトンの議論の系譜にある。
巻の中央に置かれた韻文は、宇宙の秩序を讃える内容で、プラトンの『ティマイオス』にもとづく。中世を通じて広く読まれた。
第4巻。悪の問題が扱われる。神が善であり全能なら、なぜ悪人が栄え、善人が苦しむのか。哲学の答えは、悪人は実は無力であるというものである。人が求めるのは本来善であり、悪人はそれに到達できていない。悪をなす力は力ではなく、無能である。罰を受けない悪人は、受ける者より不幸である。
続いて摂理と運命が区別される。摂理は神の側から見た秩序全体であり、運命はそれが時間の中で展開した姿である。 人間には見えない仕方で、すべては秩序づけられていると論じられる。
第5巻。最も難しい議論が置かれる。神がすべてを予知しているなら、人間の意志は自由でありうるか。予知された行為は必然になるのではないか。
哲学の答えは、認識の仕方の違いに求められる。認識されるものの性質ではなく、認識する側の能力によって認識の様態は決まる。 神は時間の中にいない。過去も未来もなく、すべてを同時に現在として見ている。これを永遠と呼び、無限に続く時間とは区別する。神が「予」知するのではなく、時間の外から現在として見ているのだから、人間の意志の自由は損なわれない。
作品は、神に見られていることを意識して正しく生きよという勧めで終わる。処刑については何も語られない。