イリアス
- 原題
- Ilias
- 作者
- ホメロス
- 成立
- 前8世紀頃
- 国
- ギリシャ
- 時代
- 叙事詩の時代
概要
前8世紀頃に成立したとみられる叙事詩である。全24巻、約15700行。伝承ではホメロスの作とされる。ヨーロッパ文学で現存する最古の作品にあたる。
題名は「イリオス(トロイアの別名)の歌」を意味する。扱うのは十年続いたトロイア戦争だが、詩が語るのは最終年のうちの五十日ほどにすぎない。戦争の始まりも終わりも、この詩の中では語られない。 木馬による陥落もトロイアの滅亡も出てこない。冒頭で宣言される主題は、ギリシア軍最強の戦士アキレウスの怒りである。
物語は、その怒りが生じ、味方に多大な犠牲をもたらし、方向を変え、最後に鎮まるまでを追う。神々は人間の側に肩入れして戦いに介入し、しばしば喧嘩をする。
韻律はダクテュロス六歩格(ヘクサメトロス)で、長短長短のリズムを一行に六回繰り返す形式である。以後のギリシア・ローマの叙事詩はすべてこの韻律で書かれた。
成立の事情は分かっていない。ホメロスという詩人が実在したかどうかも確定しておらず、生没年も出身地も伝承が分かれる。
18世紀末以降、この詩が一人の作者の手になるものかどうかが議論の対象になった。ホメロス問題と呼ばれる。19世紀には、短い歌が後から編集されたとする立場が有力だった。
20世紀に入って、この議論の前提が変わる。ミルマン・パリーとアルバート・ロードは、旧ユーゴスラビアで生きていた口承の叙事詩の歌い手を実地に調査し、彼らが定型句を組み合わせて即興で長篇を歌う技術を持つことを示した。イリアスに頻出する「足の速いアキレウス」「輝く兜のヘクトル」といった決まり文句や、繰り返される場面の型は、文字を持たない詩人が長篇を保持し再生するための装置だと説明された。この詩は書かれたものではなく、歌われたものだったという理解が、以後の研究の基礎になっている。
文字に定着した時期は前8世紀から前6世紀の間とされ、アテナイの僭主ペイシストラトスのもとで整えられたという伝えもある。現在の24巻という区分は、後のアレクサンドリアの学者による整理である。
トロイアの実在は長く疑われていたが、1870年代にハインリヒ・シュリーマンが小アジアのヒサルルクの丘を発掘し、複数の層をなす都市遺跡が確認された。詩の記述との対応をどこまで認めるかは、今も議論が続いている。
文学史における評価と影響
ヨーロッパ文学はこの詩から始まる、という言い方が慣用になっている。叙事詩の型——英雄、神々の介入、名乗り、一騎打ち、盾の描写、冥界や過去への挿入——は、この作品によって定まった。ウェルギリウスのアエネイスはこの型を意識的に踏襲して書かれ、以後のヨーロッパの叙事詩は、程度の差はあれこの系譜に属する。
古代ギリシアにおいては、教育の中心にあった。少年はこの詩を暗誦して育ち、弁論も哲学もここからの引用で議論を進めた。プラトンが理想の国家から詩人を追放すべきだと論じたのも、この詩がそれほど強い教育的影響を持っていたためである。
内容の面では、栄光と死の交換が主題になっている。アキレウスは、短命と引き換えに不滅の名声を得る道を選ぶ。だが詩は、その選択を単純に讃美していない。戦死する者一人ひとりに、父母の名と故郷と、生きていたときの短い経歴が与えられ、名もない兵士の死も同じ重さで語られる。最終巻で、敵同士が息子と友人を思って一緒に泣く場面が置かれることも、この詩の視線を示している。
アリストテレスは詩学で、この詩を悲劇の構成の手本として論じた。単一の行為に絞って構成されている点を評価しており、戦争全体ではなく怒りという一つの主題を選んだことが、その根拠にあたる。
日本では明治期から訳され、複数の全訳が読める。散文訳と韻文の調子を残す訳とで方針が分かれる。
あらすじ
ギリシア軍の総大将アガメムノンが、アポロンの神官の娘を戦利品として奪ったため、アポロンが疫病を送る。娘を返すよう迫られたアガメムノンは、代償としてアキレウスの分け前である女性ブリセイスを取り上げる。侮辱されたアキレウスは戦線を離脱し、母である女神テティスを通じてゼウスに、ギリシア軍が敗北して自分の価値を思い知るよう願う。
アキレウス不在のまま戦闘が続く。両軍の武将が名乗りを上げて一騎打ちを行い、神々が矢をそらし、傷を癒し、霧で味方を隠す。トロイア側の総大将ヘクトルが奮戦し、ギリシア軍は防壁まで押し込まれ、船に火をかけられる寸前に至る。
アガメムノンは使者を送って和解を申し出る。ブリセイスの返還と莫大な贈り物を提示するが、アキレウスは拒む。命は贈り物では買えないと述べ、長く生きて無名で終わるか、短く生きて名声を得るかという二つの運命が自分にはあると語る。
戦況の悪化を見た親友パトロクロスが、アキレウスの武具を借りて出陣する。ギリシア軍は勢いを取り戻すが、パトロクロスはアポロンに助けられたヘクトルに討たれる。
知らせを受けたアキレウスの怒りは、アガメムノンからヘクトルへ向け直される。母から新しい武具を受け取り、戦場に戻る。その武具の盾には、都市と農地と祝祭と裁判と、平和な世界の全景が刻まれている。アキレウスはトロイア軍を川に追い込み、川の神とすら戦い、城門の前でヘクトルと対峙する。ヘクトルは一度は逃げ、城壁を三周したのち、女神に欺かれて振り返り、討たれる。
アキレウスはヘクトルの遺体を戦車に繋いで引きずり、パトロクロスの墓の周りを毎日引き回す。神々が見かねて介入する。トロイア王プリアモスは、夜ひそかにギリシア軍の陣営に入り、アキレウスの膝にすがって、息子を殺した男の手に接吻する。二人はともに泣く。アキレウスは遺体を返し、葬儀のための休戦を約束する。詩は、ヘクトルの葬儀で閉じられる。