ローマ文学 銀の時代
通史では、この時代を「帝政下の文学」と要約した。ここではその中身を開く。
アウグストゥスの死後、帝政が制度として固まる。言論の条件が変わった。
共和政期には元老院で公然と政敵を攻撃できた。黄金期には体制を讃える文学が栄えた。この時代の文学は、権力を正面から論じられない条件の下で書かれている。
その結果、二つの傾向が現れる。修辞の技巧が過剰なまでに発達することと、主題が暗く、諷刺的になることである。
セネカ — 哲学者にして、皇帝の教師
セネカは複合的な人物である。ストア派の哲学者であり、悲劇作家であり、ネロの家庭教師にして政治顧問であり、当代有数の富豪でもあった。
この経歴の矛盾は当時から指摘されていた。 富を軽んじよと説きながら莫大な財産を持ち、暴君を諫めながらその政権を支えた。思想と行動をどう評価するかは今も議論が分かれる。
哲学の著作は書簡や論文の形式で、死をどう受け入れるか、怒りをどう制御するかといった実践的な主題を扱う。平明で断片的な文体は、後のエッセイの祖形とも見なされる。ミシェル・ド・モンテーニュが繰り返し引用している。
悲劇では、ギリシャ悲劇と同じ題材を扱いながら、はるかに残酷で修辞的である。舞台上演を前提としない朗読用だったとする説が有力である。
この悲劇がルネサンス期のヨーロッパ演劇に強い影響を与えた。 ギリシャ悲劇が本格的に読まれる前に、ラテン語のセネカが手本になった。復讐劇の型、亡霊の登場、独白の多用。ウィリアム・シェイクスピアの初期の悲劇にも、その痕跡がある。
六五年、ネロへの陰謀に関与したとして自死を命じられた。 その最期はタキトゥスが詳細に記録している。
タキトゥス — 権力の腐敗を書く
タキトゥスの年代記は、ティベリウスからネロまでの帝政初期を扱う。
文体が特異である。 極端に簡潔で、対称を崩し、予期しない語順で読者を立ち止まらせる。キケロの均整のとれた長文とは正反対で、意図的に不穏な文章になっている。
方法の核心は、行為の記述そのものが批判になるという点にある。直接の非難を書かず、事実を並べ、時に他人の噂として提示する。読者が判断せざるを得ない構造である。
「彼らは荒廃を作り出し、それを平和と呼ぶ」という趣旨の一句は、征服される側の首長の演説として書かれている。帝国の歴史家が、帝国を批判する言葉を敵の口に置いた。
後世の歴史叙述の模範とされ、近代の共和主義的な思想にも影響を与えた。
諷刺と、小説の先駆
ユウェナリスは諷刺詩でローマ社会を攻撃した。腐敗、成り上がり、外国人の流入、女性への嫌悪。「健全な精神は健全な身体に宿れかし」という有名な句も、本来は諷刺の文脈にある(望むべきはそれだけだ、という趣旨)。
「パンとサーカス」という句も彼に由来し、民衆が食糧と見世物で政治への関心を失うことへの批判である。
マルティアリスは短い警句詩(エピグラム)を完成させた。日常の観察、皮肉、下品な冗談。都市生活のスケッチとして読める。
散文では二つの作品が「小説の先駆」と呼ばれる。
ペトロニウスのサテュリコンは断片しか残っていないが、成り上がりの解放奴隷が開く豪華で悪趣味な宴会の場面が有名である。俗語を交えた話し言葉が記録されており、言語資料としても貴重である。作者はネロの側近で、やはり自死を命じられたとされる。
アプレイウスの黄金のろばは、魔術に手を出してろばに変えられた男の遍歴を描く。古代の小説で完全な形で現存する唯一のラテン語作品である。中に挿入された「クピドとプシケ」の物語は、後の童話の型に影響した。
自省録 — 皇帝がギリシャ語で書く
マルクス・アウレリウスの自省録は、皇帝が自分のために書いた覚え書きである。公表を意図していない。
内容はストア派の実践で、死の受容、義務の遂行、他人への寛容が繰り返し自分に言い聞かせられる。
注目すべきは、ラテン語ではなくギリシャ語で書かれている点である。当時、哲学の言語はギリシャ語だった。ローマ皇帝が、内面を語るときに帝国の言語を使わなかったことになる。ラテン語とギリシャ語の役割分担が、この一点によく現れている。
この時代をどう読むか
| 中身 | |
|---|---|
| 言論の条件 | 権力を正面から論じられない。技巧と諷刺が発達した |
| 思想と行動 | セネカの矛盾は当時から指摘され、評価は今も分かれる |
| 批判の技法 | タキトゥスは非難を書かず、事実の配置で読者に判断させた |
| 二言語の帝国 | 皇帝が内面をギリシャ語で書いた |
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