キケロ

額に皺を刻んだキケロの大理石の胸像。
ローマ時代の胸像
原綴
Marcus Tullius Cicero
生没
前106–前43
出身
アルピヌム(現・イタリア、アルピーノ)
ローマ
時代
共和政期

生涯

前106年、ローマ南東のアルピヌムに、騎士階級の家に生まれた。先祖に執政官のいない家柄で、こうした出自の者は「新人(ノウス・ホモ)」と呼ばれる。

ローマで法律と弁論を学び、20代で法廷弁護士として立った。前75年に財務官となり、公職の階梯を順に上っていく。前70年、属州シチリアの総督ウェッレスの収奪を告発した裁判で名を高めた。

前63年、執政官に就任する。同じ年、カティリナによる国家転覆の陰謀を摘発し、「祖国の父」と称えられた。だが陰謀者を裁判なしに処刑したことが後に問題となり、前58年に一時追放されている。

カエサルとポンペイウスの内戦では、判断を迷った末にポンペイウス側についた。敗北後、カエサルに赦免される。政治の中枢から遠ざけられたこの時期に、哲学の著作を集中的に書いた。娘トゥリアを亡くしたのもこの頃である。

カエサル暗殺後、アントニウスを激しく攻撃する演説を連発した。『ピリッピカ』と呼ばれる十四篇である。だがアントニウスとオクタウィアヌスが手を結ぶと、粛清の名簿に載せられた。

前43年、逃亡中に殺された。首と、演説を書いた右手が切り落とされ、ローマの演壇に晒されたと伝えられる。63歳だった。

作風

キケロが確立したのは、ラテン語の散文の文体そのものである。

長い文を、従属節を積み重ねながら破綻なく構成し、最後で決着させる。この構造を「ピリオド(周期文)」という。リズムがあり、対句があり、語順が計算されている。文末の音節の長短の並びまで整えられていて、耳で聞いて心地よいように作られている。演説は読むものではなく聞くものだったからである。

弁論の実際は、五十篇以上が残っている。『カティリナ弾劾』は「いつまで我々の忍耐を弄ぶのか、カティリナよ」という冒頭が知られ、ラテン語の教科書に必ず載る。『ウェッレス弾劾』は、膨大な証拠を積み上げる方法で相手を裁判の途中で逃亡に追い込んだ。

哲学の著作では、独創を主張していない。本人もそう認めており、ギリシャの諸学派の議論をラテン語で紹介・整理するという立場をとった。多くは対話篇の形式をとる。

そこで新しい語彙を作る必要が生じた。それまでラテン語には哲学の語彙がなかったためである。qualitas(質)、essentia(本質)、humanitas(人間性)といった語を、ギリシャ語からの訳語として作った。ヨーロッパの抽象的な思考の語彙は、ここで整備されている。

書簡には別の顔が出る。九百通近くが残っており、政治的に動揺し、愚痴をこぼし、虚栄心を見せる姿が書かれている。演説の文体とはまったく違う、率直な口語に近い文章である。

作品

『カティリナ弾劾』(前63年)

四篇からなる弾劾演説で、ラテン語教育の定番になっている。

『弁論家について』(前55年)

修辞学の理論書である。弁論家に必要なのは技術だけでなく、広い教養だと論じる。

『国家について』(前51年頃)

理想の国制を論じた対話篇である。全体は失われ、末尾の「スキピオの夢」の部分だけが中世に伝わって、広く読まれた。

『友情について』『老年について』(前44年)は短い対話篇で、あらゆる時代に読まれ続けた。分量が小さく主題が明確なので、この人物の著作ではここから入るのが読みやすい。

『義務について』(前44年)

息子に宛てた道徳論で、ルネサンス以降、道徳教育の教科書になった。

書簡集は、友人アッティクスらへの手紙を集めたものである。ペトラルカが発見したのがこれにあたる。

文学史における立ち位置と影響

中世において、ラテン語を学ぶことはキケロを読むことだった。文法も修辞も、この人物の文章を手本にする。修辞学の理論書は教育の基礎になった。

ギリシャ語が読めなくなった中世西欧にとって、キケロはギリシャ哲学への主要な窓口でもあった。アウグスティヌス告白のなかで、キケロの『ホルテンシウス』(散逸した哲学への勧め)を読んで哲学に目覚めたと書いている。ヒエロニムスには、夢のなかで「お前はキリスト者ではなくキケロ主義者だ」と責められたという有名な逸話がある。古典の文体への傾倒が信仰と緊張関係にあったことを示す挿話として引かれる。

ペトラルカが1345年、ヴェローナでキケロの書簡集を発見した。ルネサンス人文主義の出発点とされる出来事である。ただしペトラルカは、そこに現れた動揺し愚痴をこぼすキケロ像に幻滅し、死者に宛てて手紙を書いている。

人文主義者たちは「キケロ主義」を掲げた。中世の崩れたラテン語を捨て、キケロの文体だけを正しいものとする立場である。行き過ぎも起きた。キケロが使わなかった語は使わないという極端な主張が現れ、エラスムスが『キケロ主義者』でこれを風刺している。

近代語の散文にも影響が及んだ。長い文を構造化して積み上げる書き方は、ヨーロッパ各国語の格調高い文章の型として受け継がれた。ローマのセネカが作った短く鋭い文体と対をなす規範として、16〜17世紀には両者が対立している。

アメリカ独立やフランス革命の弁論も、キケロの修辞を手本にしている。共和政と自由を語る政治的な言葉の型が、ここから供給された。

登場する文学史