詩学
- 原題
- Peri Poietikes
- 作者
- アリストテレス
- 成立
- 前335頃
- 国
- ギリシャ
- 時代
- 古典期
概要
前335年前後に書かれたとみられるアリストテレスの著作である。全26章、分量は短く、日本語訳で百ページに満たない。
対象は、当時の言葉でいう「詩作」の技術である。悲劇、叙事詩、喜劇を含み、中心に置かれるのは悲劇の分析にあたる。詩がなぜ人を動かすのか、良い悲劇と悪い悲劇はどこで分かれるのかを、実際の作品を例に挙げながら論じる。
この本は読み物として書かれていない。講義のための覚書か、聴講者の筆記に由来するとみられ、文体は簡潔で説明が省かれる。 同じ語が定義されないまま使われ、途中で議論が飛ぶ箇所もある。後世の解釈が分かれてきた理由の一つがここにある。
もともとは二巻構成で、第二巻が喜劇を扱っていたとされるが、現存しない。
アリストテレスの著作の多くと同様、この本は公刊を意図した文章ではない。プラトンの学園を出た後、アテナイに設けたリュケイオンでの講義に関わる草稿と考えられている。推敲された著作ではなく、教材の性格を持つ。
背景にはプラトンとの対立がある。プラトンは、詩は真実の影のさらにその影を作るものであり、感情を煽って理性を弱めると論じ、理想の国家から詩人を追放すべきだと述べた。アリストテレスは、模倣を人間の自然な性向として肯定し、感情の喚起にも積極的な機能を認める。カタルシスの概念は、この文脈で提出されている。
失われた第二巻は、喜劇と笑いを扱っていたとみられる。10世紀の写本に付された要約「トラクタトゥス・コイスリニアヌス」が、その内容を反映しているという説がある。エーコの薔薇の名前は、この失われた喜劇論の写本を修道院の図書館に置く設定で書かれた小説である。
文学史における評価と影響
ヨーロッパの文学理論は、この本を出発点として展開してきた。取り上げる問題——構成、人物、感情、虚構と事実の関係——の枠組みが、以後の議論の共通の土台になった。
受容の歴史には断絶がある。中世のヨーロッパでは長く忘れられ、アラビア語圏を経由して部分的に伝わった。ルネサンス期の16世紀にギリシア語原典から翻訳・注解され、そこから影響が本格化する。
その過程で、この本は規範として読まれるようになった。アリストテレス自身は事実の分析として書いており、規則を定めていない。ところが16世紀以降のイタリアとフランスの理論家は、そこから守るべき規則を導き出した。とくに三一致の法則——筋は一つ、場所は一つ、時間は一日以内——は、フランス古典主義演劇の基準になり、ラシーヌやコルネイユはこの枠内で書いた。だが原典に明記されているのは筋の統一だけで、時間については一回りの太陽の間に収まると述べただけの記述であり、場所の統一には言及がない。後世の付加が、原典の権威で正当化されていた。
18世紀以降、この規則は攻撃の対象になる。レッシングはドイツで、ユゴーはフランスで、規則を破る根拠としてシェイクスピアを持ち出した。規則か自由かという論争は、アリストテレスの読み直しを伴って進んだ。
現在も、脚本術の教本や物語構造の分析で参照され続けている。三幕構成や主人公の欠陥といった実作向けの概念が、この本を経由して語られることは多い。
日本語訳は複数あり、注釈の分量に差がある。短いが、注なしで読み通すのは難しい本である。
内容
冒頭で、詩を含むあらゆる芸術はミメーシス(模倣・再現)であると定める。何を、どんな手段で、どのように再現するかによって種類が分かれる。悲劇は優れた人物の行為を、喜劇は劣った人物を再現する。
悲劇の定義が第6章に置かれる。一定の大きさを持つ、真面目な行為の再現であり、語りではなく登場人物の行動によって行われ、憐れみと恐れを通じてそうした感情のカタルシスをもたらすものという趣旨である。このカタルシスという語が何を意味するかについては、感情の浄化、排出、明確化など複数の解釈があり、決着していない。アリストテレス自身がこの本の中で定義していないためである。
悲劇の構成要素として、筋・性格・思想・語法・視覚的装置・歌曲の六つを挙げ、筋(ミュートス)を最も重要とする。悲劇は人間を再現するのではなく行為を再現するのであり、性格は筋のために置かれる。性格のない悲劇はありうるが、筋のない悲劇はありえないと述べる。
良い筋の条件が続く。始めと中と終わりを持ち、一つの完結した行為をなすこと。長さは記憶できる範囲であること。出来事は偶然に並ぶのではなく、必然または蓋然にしたがって前の出来事から生じること。歴史家は起きたことを語り、詩人は起こりうることを語るという区別がここで示される。この点で、詩は歴史より哲学的であり普遍的だと述べる。
優れた筋の装置として、ペリペテイア(事態の急転)とアナグノリシス(無知から知への転換)が挙げられ、この二つが同時に起こるものが最良とされる。例として繰り返し引かれるのがソポクレスのオイディプス王である。
主人公の条件も定められる。徹底した善人が不幸になるのは不快なだけで憐れみを呼ばず、悪人が不幸になるのは当然で恐れを呼ばない。中間の人物が、悪徳ではなくハマルティア(過ち・的を外すこと)によって不幸に陥る場合が最も適する。この語を性格上の欠陥と取るか、事実についての誤認と取るかで、後世の解釈が分かれた。
後半では、悲劇と叙事詩の比較、語法と比喩の議論が続く。ホメロスは、自分では語らずに人物に語らせる点で他の叙事詩人より優れていると評価される。末尾では、悲劇のほうが叙事詩より優れているという結論が示される。