アベラール
- 原綴
- Petrus Abaelardus
- 生没
- 1079–1142
- 出身
- ル・パレ(フランス北西部ブルターニュ地方)
- 国
- ローマ
- 時代
- 中世ラテン文学
生涯
1079年、フランス北西部ブルターニュ地方の騎士の家に生まれた。だが剣ではなく議論を選ぶ。当時の名だたる学者のもとを渡り歩いて学び、そして次々に論破していった。
若くしてパリで教え始めると、その鋭い弁論によって絶大な人気を得た。当時のパリはまだ大学が制度として成立する前だが、優れた教師のもとに学生が集まる場ができつつあった。アベラールの評判を聞いて、ヨーロッパ中から学生が押し寄せたと伝えられる。
名声の絶頂で、生涯を変える出来事が起きる。エロイーズとの恋愛である。
エロイーズは聡明な若い女性だった。アベラールはその家庭教師となり、二人は愛し合うようになる。密かに子をもうけ、結婚した。だがエロイーズの後見人だった叔父はこれを許さなかった。叔父が差し向けた者たちが夜にアベラールを襲い、去勢したのである。
この事件の後、二人は別々の道を歩んだ。エロイーズは修道女に、アベラールは修道士になる。だが手紙のやりとりは続いた。この往復書簡が後世に伝わっている。
修道士になってからも、権威に疑いを向ける姿勢は変わらなかった。その神学上の主張は繰り返し異端の疑いをかけられる。当時最も影響力のあった聖ベルナールと対立し、その著作は教会によって断罪された。晩年は失意のうちに過ごし、1142年に修道院で死去した。
作風
中世の学問では、聖書と、教会の指導者たち——教父と呼ばれる——の言葉が絶対の権威だった。それに疑問を差し挟むことは考えにくい。だがアベラールは、信仰に関わることであっても、理性で吟味しようとした。「疑うことによって探求へ導かれ、探求によって真理を悟る」。この言葉が、その姿勢を示している。
主著『然りと否』は、その方法を形にしたものである。ある問いについて、聖書や教父の言葉のなかから、「そうだ」と言っているものと「そうではない」と言っているものを、並べて示す。たとえば「信仰は理性に基づくか」という問いに、肯定する権威と否定する権威を対置する。全部で百五十を超える問いが並ぶ。
これは権威を否定するためではない。矛盾から目をそらさず、理性によって解きほぐそうという試みである。この手順——問いを立て、対立する見解を並べ、検討して答えを出す——は、後の大学の学問の基本の型になった。中世の大学で行われた学問をスコラ学と呼ぶが、その方法の原型がここにある。
自伝『わが災厄の記』も書いた。苦難に遭った友人を慰めるために、自分の身に起きたことを綴った手紙、という体裁をとる。学問上の闘争、エロイーズとの恋とその破局、度重なる迫害。自らの災厄を包み隠さず語るこの文章は、アウグスティヌスの告白と並ぶ、中世に自分自身を語った稀な例として読まれてきた。
倫理学でも独自の考えを示した。行為の善悪は、外に現れた行いではなく、内なる意図によって決まる。同じ行為でも、どういうつもりでしたかによって罪の重さは変わる、という主張である。
作品
『然りと否(Sic et Non)』(1120年代)
矛盾する権威の言葉を並べた著作である。後の大学の学問の方法を準備した。
『わが災厄の記(Historia Calamitatum)』
自らの生涯を綴った書簡である。友人への手紙という形をとる。
『エロイーズとの往復書簡』
修道院に入った後の二人が交わした手紙である。とくにエロイーズの手紙は、その知性と、抑えきれない感情の率直さによって名高い。
倫理学の著作『汝自身を知れ』、論理学と神学の著作も残っている。
日本語では『アベラールとエロイーズ』の題で、自伝と往復書簡をあわせた訳がある。
文学史における立ち位置と影響
後の大学で行われる学問の方法を準備した点が、最も大きな功績である。問いを立て、対立する見解を並べ、理性によって解決する。この手続きは、13世紀のトマス・アクィナスの『神学大全』にそのまま受け継がれた。中世の知の体系は、アベラールが示した手順の上に築かれている。
権威を疑うという姿勢そのものも、危険視されながら影響を残した。信仰に理性を持ち込むことは当時としては挑戦的で、そのために断罪もされた。だがそれは、中世の知性が持ちえた可能性の一つを示している。
一方、その名を最も広く伝えたのは学問ではなく、エロイーズとの恋である。この物語は中世で最もよく知られた恋愛譚となり、往復書簡は繰り返し読まれ、翻案された。18世紀イギリスの詩人ポープは、この物語を詩に詠んでいる。二人の遺骸は後にパリのペール・ラシェーズ墓地へ移され、今日も恋人たちが訪れる場所になっている。
哲学者としてのアベラールと、悲恋の主人公としてのアベラール。この二つの像が、その名を九百年伝えてきた。
日本での受容は、往復書簡の翻訳を通じて進んだ。中世の悲恋の物語として、またスコラ学の先駆として紹介されている。