カエサル
- 原綴
- Gaius Julius Caesar
- 生没
- 前100–前44
- 出身
- ローマ
- 国
- ローマ
- 時代
- 共和政期
生涯
前100年、ローマの古い貴族の家に生まれた。共和政が内部から崩れ始めた時期にあたる。
政治家として頭角を現し、政略と軍事の才によって権力に近づいた。前60年、ポンペイウス、クラッススと組んで政治を動かす体制を作る。三頭政治と呼ばれるもので、公式の制度ではなく、有力者三人の私的な取り決めにすぎない。それが国の方針を決められるほど、この時期の共和政は空洞化していた。
前58年からガリア(現在のフランス一帯)の征服に乗り出す。八年に及ぶこの戦争で、ガリア全域をローマの支配下に置いた。得たものは領土だけではない。莫大な戦利品と、自分に忠実な軍隊と、ローマでの名声である。この戦争の記録がガリア戦記にあたる。
前49年、と対立し、軍を率いてルビコン川を渡った。この川はガリアとイタリア本土の境で、軍を連れて越えることは反逆を意味する。「賽は投げられた」という言葉はこのときのものと伝えられる。以後の内戦でポンペイウスを破り、ローマの実質的な支配者になった。
権力を握ってからは改革に着手した。暦の作り直しもその一つで、それまで年ごとにずれていた暦を太陽の運行に合わせ直している。ユリウス暦と呼ばれ、今日の暦の基礎になった。だがその独裁的なやり方は、共和政を守ろうとする側の反発を招く。
前44年3月15日、元老院の会議の場で、ブルートゥスら十数人に刺殺された。二十三か所を刺されたと伝えられる。五十五歳だった。この暗殺は共和政を救わず、かえってその終わりを決定づけることになる。
作風
ガリア戦記は、ガリア征服の経過を年ごとに記録した報告書である。書かれた目的も明確で、ローマにいる元老院と市民に向けて、自分の遠征がいかに必要で成功しているかを示すことにあった。
その文章に飾りがない。難しい修辞を使わず、比喩も感情もほとんど入れず、何が起きたかだけを順に書く。語彙も限られている。この透明さがかえって力を持ち、ラテン語の散文の模範とされてきた。
最も特徴的なのは、自分のことを三人称で書く点である。「私は」ではなく「カエサルは」と書く。この一点によって、文章は自分について語る手記ではなく、第三者による事実の報告のように見えてくる。実際には自分の行動の正当性を主張する政治文書だが、それが冷静な記録として読める。書き手の巧妙さはここに出ている。
冒頭の一文「ガリアは全体として三つの部分に分かれる」は、この文体を象徴するものとしてよく引かれる。事実を一つ置いただけの文で、そこから淡々と地理の説明が続く。
複雑な軍事作戦や、部族間の関係、地形の条件が、いずれも整理されて伝わる。読者が現地を知らないことを前提に書かれているためで、この配慮が明晰さを支えている。
『内乱記』でも同じ書き方をとる。ポンペイウスとの内戦を、やはり三人称の冷静な報告として記録し、そのなかで開戦の責任が相手側にあったことを示している。
作品
『ガリア戦記(De Bello Gallico)』(前50年代)
代表作である。全8巻。八年間のガリア征服を年ごとに記録する。最終巻は部下のヒルティウスが書き足したものにあたる。
『内乱記(De Bello Civili)』
ポンペイウスとの内戦を扱う全3巻の記録である。
ほかに演説や書簡も書いたが、大部分が失われた。ラテン語の文法についての著作もあったと伝えられる。
日本語ではガリア戦記が読める。
文学史における立ち位置と影響
政治史・軍事史の巨人であると同時に、ラテン文学史でも確かな位置を占める。
その散文は、簡潔なラテン語の規範とされてきた。キケロの荘重で技巧的な文章と対をなす。長い文を組み立てて説得するキケロと、短く事実を並べるカエサル。ラテン散文の両極として並べられる。
ガリア戦記は、その平明さゆえに、長くラテン語学習の最初の教材に使われてきた。今日でも、ラテン語を学ぶ者が最初に読む本の定番にあたる。冒頭の一文を暗記したヨーロッパの学生は数え切れない。
三人称で自分を語り、客観を装う手法は、後世の回想録や報告文に影響を与えた。事実を淡々と並べる形をとりながら自分を正当化する、という書き方の手本になっている。
その名前そのものが権力の代名詞になった。ドイツ語の「カイザー」もロシア語の「ツァーリ」も、カエサルの名に由来する。個人の名が皇帝を意味する普通名詞になった例は他にほとんどない。
劇的な生涯と最期は、後世の文学の題材になり続けた。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』がその代表にあたる。
日本での受容は『ガリア戦記』の翻訳を通じて進んだ。歴史書として、また簡潔な散文の模範として読まれている。