ローマ文学 中世ラテン文学
通史では、この時代を「国境を越えた書き言葉」と要約した。ここではその中身を開く。
この章が扱うのは、国の文学ではない。
西ローマ帝国は四七六年に滅んだ。だがラテン語は消えず、フランスでもイングランドでもドイツでも、真面目な内容を書くための言語であり続けた。
つまりここで扱うのは、特定の国に属さない、ヨーロッパ全体の書き言葉の歴史である。他国の文学史のページに現れる「ラテン語から離脱する」という主題——デュ・ベレーの宣言、モアがユートピアをラテン語で書いた事実、ダンテの選択——は、すべてこの言語を対象にしている。
なぜ生き延びたのか
理由は三つある。
教会。 典礼、神学、教皇庁の文書がラテン語だった。西ヨーロッパの宗教生活の全体がこの言語で動いていた。
大学。 十二世紀以降に成立した大学では、講義も討論も論文もラテン語である。パリで学んだイングランド人が、ボローニャで議論できた。 国籍を越えた学問共同体が、共通語によって成立していた。
行政と外交。 条約、法令、外交文書。異なる言語圏の間で取り交わす文書に、中立的な言語が必要だった。
注意すべきは、これが「死んだ言語」ではなかったという点である。中世のラテン語は語彙を増やし、綴りも発音も変化した。古典期のラテン語とは違う、生きて使われる言語だった。 ルネサンスの人文主義者がこれを「堕落」と見なして古典への回帰を唱えるのは、後の話である。
何が書かれたか
神学と哲学。 アベラールは論理学を武器に神学の問題を扱い、大学の討論の方法を作った。『然りと否』では、権威ある教父の見解が互いに矛盾する事例を並べ、読者に判断を促す。危険な方法として非難も受けた。
エロイーズとの往復書簡が伝わっており、中世の恋愛と知性の記録として読まれてきた。ただし書簡の真正性については議論がある。
トマス・アクィナスの『神学大全』は、アリストテレス哲学とキリスト教神学を統合しようとした大著である。問いを立て、反論を挙げ、答え、反論に応じるという定型で膨大な主題を処理する。中世スコラ学の方法が最も体系的に現れている。
歴史と年代記。 各地の修道院で年代記が書かれた。ベーダ『イングランド教会史』のように、後に国民史の基礎になったものもある。
そして世俗の詩。 ここが見落とされやすい。
カルミナ・ブラーナ — 放浪学生の歌
中世ラテン語は聖なる言語だけではなかった。
十二世紀から十三世紀、大学を渡り歩く学生や下級聖職者が、ラテン語で世俗の詩を作った。主題は酒、賭博、恋愛、聖職者への皮肉である。
十九世紀にバイエルンの修道院で発見された写本が『カルミナ・ブラーナ』で、二十世紀にオルフが一部を作曲したことで広く知られるようになった。
神学の言語で、酔って女を口説く歌が書かれていた。 ラテン語を宗教と学問だけの言語と考えると、この層が見えなくなる。
終わりの始まり
十四世紀以降、俗語が書き言葉の地位を奪っていく。
ダンテ・アリギエーリが神曲をイタリア語で書いた(一三二一年完成)。彼はラテン語で『俗語論』を書き、皮肉なことにラテン語で俗語の優位を論じている。
ジェフリー・チョーサーが英語で書き、ボッカッチョとペトラルカがイタリア語でも書いた。二百年後、ジョアシャン・デュ・ベレーがフランス語の擁護を宣言する。
ただし、終わりは急ではなかった。
- トマス・モアのユートピアは一五一六年にラテン語で書かれた
- ルネ・デカルトは『方法序説』をフランス語で書いたが(一六三七年)、主著の多くはラテン語である
- ニュートンの『プリンキピア』は一六八七年にラテン語
- 学名や法律用語には今日まで残っている
学問の言語としては十八世紀まで生き続けた。 文学の主役の座を降りた後も、二百年以上機能し続けたことになる。
この時代をどう読むか
| 中身 | |
|---|---|
| 国に属さない文学 | ここで扱うのはヨーロッパ全体の共通語の歴史 |
| 生きた言語だった | 中世ラテン語は変化し続けた。古典期とは別の言語 |
| 聖と俗 | 神学の言語で、酒と恋の歌も書かれた |
| 緩やかな終わり | 文学の座を降りた後も、学問の言語として二百年続いた |
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