告白
- 原題
- Confessiones
- 作者
- アウグスティヌス
- 成立
- 397-400
- 国
- ローマ
- 時代
- 後期古代
概要
397年から400年頃に書かれたラテン語の著作である。全13巻。当時のアウグスティヌスは北アフリカのヒッポの司教で、四十代半ばだった。
文章はすべて神への呼びかけの形をとる。「あなた」と語りかけながら、自分の過去を報告し、その意味を問う。読者に向けて書かれた自伝ではなく、神に向けた祈りの形式をとっており、読者はその祈りを傍らで聞く位置に置かれる。
原題の語には二つの意味がある。罪を告白することと、信仰を言い表すこと。この書はその両方を兼ねる。
構成は前後で大きく変わる。第1巻から第9巻が生い立ちから回心と母の死まで、第10巻が現在の自分と記憶についての考察、第11巻から第13巻が時間の本性と創世記冒頭の解釈にあてられる。後半は自伝ではなく、哲学と神学の議論である。 この落差は古くから論じられてきた。
執筆時、アウグスティヌスは司教に就任して間もなかった。マニ教徒だった過去や、洗礼が遅かったことは知られており、司教としての資格を疑う声もあった。自らの過去を公にし、その意味を提示する必要があったと考えられている。
とはいえ弁明の書ではない。過去の自分を弁護せず、盗み一つを長く論じ、回心後もなお誘惑を抱えていることを書く。
原典はラテン語で、聖書からの引用が全篇に織り込まれる。とくに詩篇の言葉が地の文と区別なく混ざる書き方は、この著作の文体の特徴にあたる。
アウグスティヌスは晩年、自著を点検した『再考録(Retractationes)』でこの書にも触れ、いま読んでも自分の心を神に向けさせると述べている。他の主著には神の国がある。
文学史における評価と影響
内面を主題とする最初の自伝として位置づけられる。それ以前の伝記や回想は、公職の経歴や事績を記すもので、心の動きそのものを対象にしていない。この書は、自分でも説明のつかない欲望、決意できない状態、記憶の底の把握しきれなさを言葉にした。以後の西欧における自己を語る文章は、この形式を出発点とする。
ただし系譜は直線ではない。ルソーは同じ題名の告白を書いたが、向かう相手が違う。アウグスティヌスは神に語りかけ、ルソーは読者に向けて、自分は他人と違うと宣言する。告白の宛先が神から人間に移ったことが、近代の自伝の成立を示す。
思想史における影響も大きい。時間論は現在も哲学の議論で参照され続けている。過去と未来の実在をめぐる問題、時間の計測が心の働きに依存するという主張は、フッサールやハイデガーに引き継がれた。悪を実体ではなく欠如と見る考え、意志が自分自身に従わないという問題も、西欧の思想の基本的な論点として残った。
文学への影響では、ペトラルカがこの書を携えてヴァントゥー山に登り、頂上で開いた箇所を読んで内省したという有名な書簡がある。近代以降も、回心と自己省察を扱う作品はこの書を参照点にしてきた。
日本では複数の訳が読める。前半の自伝部分だけを読む場合も多いが、後半の時間論が思想史では最も参照される箇所にあたる。
内容
第1巻から第4巻。北アフリカのタガステに生まれ、父は異教徒、母モニカはキリスト教徒だった。幼時の記憶から始まり、言葉を覚える過程、学校で受けた鞭、ラテン文学に涙し数学を嫌ったことが記される。少年時代の逸話として、仲間と梨の木から実を盗んだ話が長く扱われる。腹が減っていたわけでも、実が欲しかったわけでもなく、盗むこと自体が目的だった。動機のない悪をなぜ人は望むのかという問いが、ここで立てられる。
カルタゴで修辞学を学び、内縁の女性と暮らして息子をもうける。キケロの失われた著作『ホルテンシウス』を読んで哲学に向かい、九年間マニ教に属する。マニ教は善と悪の二つの原理が世界を争うと説く教えで、悪の由来を説明する枠組みとして受け入れた。
第5巻から第8巻。ローマ、次いでミラノで修辞学の教師となる。ミラノ司教アンブロシウスの説教に接し、聖書を字義通りでなく読む方法を知る。新プラトン主義の書に触れ、悪とは実体ではなく善の欠如であるという考えを得る。マニ教から離れるが、生き方は変えられない。「私に貞潔を与えたまえ、ただし今はまだ」と祈っていた、と書く。
第8巻が回心の場面である。庭で葛藤していたとき、隣家から「取れ、読め」と繰り返す子どもの声が聞こえる。開いた聖書のパウロの手紙に目を落とし、そこにあった一節を読んで決意する。386年、三十一歳のときのことである。
第9巻。教職を辞し、洗礼を受ける。アフリカへ帰る途中、オスティアの港で母モニカと語り合う。窓辺で永遠について話すうち、二人の思いが一瞬それに触れた、と記される。数日後、母は死ぬ。アウグスティヌスは涙を抑えようとし、抑えきれなかったことを書く。
第10巻。現在の自分に向き直る。記憶についての長い考察が置かれる。記憶とは何であり、なぜそこに自分でも把握しきれない広がりがあるのか。神を探すとはどこを探すことなのか。自分がまだ抱えている誘惑——食欲、好奇心、他人からの称賛への欲——が点検される。
第11巻から第13巻。創世記の冒頭「初めに神は天と地を創造された」の解釈から、時間の議論に入る。神が世界を創る前に何をしていたかという問いに対し、時間は世界とともに創られたのだから「前」はないと答える。続いて、時間とは何かが問われる。過去はもうなく、未来はまだなく、現在は幅を持たない。では、われわれが長い短いと測っているものは何か。 アウグスティヌスは、時間は心の中の伸張であり、過去は記憶として、未来は期待として、現在は注意として心にあると論じる。