日本の詩歌の歴史 — 和歌・連歌・俳諧・俳句・近代詩の流れ
日本の詩歌には、千三百年を超える歴史がある。長歌・短歌に始まり、連歌、俳諧、俳句、そして自由詩へと形を変えながら、途切れることなく作られ続けてきた。ここでは、その全体を時代の順にたどる。
日本の詩歌の流れ 早見表
| 時代 | 中心の形式 | 代表的な作品 | どんな歌が詠まれたか |
|---|---|---|---|
| 8世紀(奈良) | 長歌・短歌 | 万葉集 | 素朴で力強い調子。天皇から農民・兵士まで、幅広い層が詠んだ |
| 10世紀(平安前期) | 短歌(和歌) | 古今和歌集 | 掛詞・縁語を凝らした優美な歌。宮廷が天皇の命で編纂した |
| 13世紀(鎌倉初期) | 和歌 | 新古今和歌集 | 古歌を背後に重ね、言葉の奥に余情を漂わせる歌 |
| 14〜16世紀(室町) | 連歌 | 水無瀬三吟百韻 | 座に集まった数人が、前の句を受けては転じて連ねていく |
| 17〜19世紀(江戸) | 俳諧 | 猿蓑・おくのほそ道 | 町人にも広がった滑稽と言葉遊び。芭蕉はそこから情趣の詩を作った |
| 明治 | 俳句・短歌・新体詩 | 新体詩抄・みだれ髪 | 見たままを写す写生の歌と、西洋詩をまねた長い詩 |
| 大正 | 口語自由詩 | 月に吠える・智恵子抄 | 文語をやめ、話し言葉で内面を書く詩 |
| 昭和以降 | 自由詩と定型の並立 | — | 前衛的な詩、戦争の詩を経て、自由詩と俳句・短歌が並び立つ |
日本の詩の土台 — 音数と四季
はじめに、日本の詩の土台を押さえておく。ここが分かると、以後の変化がすべて理解しやすくなる。
西洋の詩は、押韻(行の末を同じ音でそろえること)と、強く読む音と弱く読む音の配列によって形を作る。中国の詩(漢詩)も、押韻と、声の高低(平仄)を厳密に定める。ところが日本語には、そのどちらも向かない。日本語の語はほとんどが母音で終わるため、韻を踏んでも効果が薄い。強弱の差も、声調もはっきりしない。
そこで日本の詩は、音の数をそろえるという道を選んだ。五音と七音を組み合わせて調子を作る。この単純な仕掛けが、以後のすべての形式の骨格になる。長歌も短歌も連歌も俳句も、五と七の組み合わせ方が違うだけである。
もう一つ、日本の詩の特徴に、季節と自然が中心にあり続けたことがある。西洋の詩が神や英雄や恋を主題にした時代にも、日本では四季の移り変わりと、それに映した心情が主題であり続けた。この二つ——五七の音数と、四季——が、時代を通じて変わらない軸である。
起源 — 記紀歌謡と万葉集(8世紀)
最も古い歌は、『古事記』『日本書紀』に載る歌謡である(記紀歌謡)。神話や伝説の物語の中で、人物が歌う形で記録されている。音数はまだ整いきっておらず、集団で歌われた古い歌謡の姿を留めている。
形が定まるのが万葉集(8世紀後半成立)である。約4500首を収める。特筆すべきは、その作者層の広さで、天皇や宮廷歌人だけでなく、防人(さきもり)として九州へ徴発された東国の兵士や、名も知れぬ庶民の歌までが並ぶ。編纂には大伴家持が深く関わったとされる。
用いられた形式は主に三つである。
| 形式 | 音数 | どういう歌か |
|---|---|---|
| 五七を何度も繰り返し、最後を五七七で結ぶ | 長さに上限がなく、出来事の経過を順に語れる。多くは直後に短歌形式の「反歌」を添えて要点をまとめる。皇子の死を悼む挽歌など、公の場で読み上げる歌に使われた | |
| 短歌 | 五・七・五・七・七 | 三十一音。前半の五七五で情景を、後半の七七で心情を述べるなど、一息で言い切れる長さ。恋の贈答のように、個人が個人へ向けて詠む場で使われた |
| 旋頭歌(せどうか) | 五七七・五七七 | 五七七を二度繰り返す。前半と後半が問いと答え、呼びかけと応じのように対をなすものが多く、もとは二人が掛け合って歌った形が残ったものとみられる |

この時代、まだ仮名は生まれていない。歌は、漢字の音だけを借りて一字一音で書き取られた(万葉仮名)。写本を見ると、日本語の歌が漢字の列として並んでいるのが分かる。
技法ではが目立つ。「あしひきの山」「ひさかたの光」のように、決まった語の前に決まった五音を置く。意味を加えるというより、調子を整え、歌に古い響きを与える働きをする。
宮廷歌人の柿本人麻呂は、長歌の形式で皇子の死を悼む壮大な挽歌を作り、この形式の頂点を示した。万葉の歌風は、率直で力強い調子から、後に「ますらをぶり」と呼ばれる。
なお当時、公の場の詩は漢詩だった。751年の『懐風藻』が日本最初の漢詩集である。日本の詩歌は、和歌と漢詩という二本立てで長く進む。教養ある男性は漢詩を作り、和歌は私的な感情や恋を託す場だった、という役割分担が平安期まで続く。
和歌の確立 — 古今和歌集(10世紀)
平安時代に入ると、長歌はすたれ、短歌が和歌そのものを意味するようになる。
905年、天皇の命によって編まれた最初の歌集()古今和歌集が成立した。撰者を代表する紀貫之が仮名で書いた序文(仮名序)は、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と始まる。歌は人の心から生まれて言葉になる、という宣言で、日本語で書かれた最初の本格的な文学論とされる。

この間に、日本語を書く手段そのものが変わっている。漢字を崩した仮名が生まれ、歌は仮名で書かれるようになった。書の美しさもあわせて味わう対象になり、装飾を施した料紙に歌を書く工芸が発達する。
歌風も万葉から大きく変わった。感情を直接ぶつけるのではなく、言葉の仕掛けによって二重三重に組み立てる。中心になるのが掛詞と縁語である。
掛詞は、同じ音の語に二つの意味を重ねる技法をいう。小野小町の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」でいえば、「ふる」に「経る(時が過ぎる)」と「降る(雨が降る)」が、「ながめ」に「眺め(物思い)」と「長雨」が掛かっている。桜が色褪せる情景と、物思いのうちに老いていく自分と、降り続く長雨が、一つの言葉の上で重なる。
縁語は、意味の上でつながりのある語を意図して散らし、歌の底に一つの世界を響かせる技法である。この歌でも「降る」「長雨」が雨のつながりを作っている。
三十一音という短さの中で、こうして複数の像を同時に立ち上げる。この理知的で優美な調子が、後に「たをやめぶり」と呼ばれた。
この時期の代表的な歌人が、仮名序で貫之が論評した六歌仙である。在原業平は情熱を、小野小町は夢と恋の哀感を歌った。少し後には和泉式部が、激しい恋の歌を残している。
重要なのは、勅撰集という制度がここで始まったことである。以後、室町時代までに二十一の勅撰集が編まれた。歌が国家の事業として集められ、規範として保存される——この仕組みが、和歌を千年にわたって持続させた。
和歌の深化 — 新古今和歌集(13世紀)
平安末から鎌倉初期にかけて、和歌は新たな高みに達する。
準備したのが藤原俊成である。歌合(左右に分かれて歌の優劣を競う催し)の判者を数多く務め、その判定の言葉を通して歌論を築いた。俊成が理想としたのがで、言葉で言い尽くさず、奥に情趣を漂わせる境地を指す。
その子藤原定家が中心となって編まれたのが新古今和歌集(1205年)である。ここで洗練されたのがだった。有名な古歌の言葉をあえて取り込み、元の歌の情景を背後に重ねることで、三十一音に奥行きを与える。
同じ時代、僧となって各地を旅した西行は、技巧よりも実感に根ざした歌を詠み、山家集を残した。鎌倉では三代将軍源実朝が、定家に学びながらも万葉集風の直截な歌を作り、金槐和歌集にまとめている。
一方、貴族の和歌とはまったく別の系統の歌も流れていた。平安末に流行した歌謡「今様」を、後白河法皇が集めた梁塵秘抄である。遊女や芸能者が歌った流行歌で、「遊びをせんとや生まれけむ」の一節が知られる。記録に残りにくい庶民の声を伝える、貴重な例外である。
定家は後に、優れた歌人百人の歌を一首ずつ選んだとされ、これが小倉百人一首として広まった。歌がるたの形で庶民にまで届いたことで、和歌は近世以降も生き続けることになる。
連歌 — 詩が共同作業になる(14〜16世紀)
中世に入ると、和歌からが生まれる。短歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を別の人が詠み、それを次々に連ねていく形式である。百句を連ねる「百韻」が基本の形になった。
ここに日本の詩歌の大きな転換がある。詩が一人の作品ではなくなり、座に集まった人々の共同作業になった。前の句を受けて世界を広げ、しかし同じ趣向が続かないよう転じていく。この「付ける」「転じる」技術そのものが、詩の中心になったのである。
連歌を芸術の域に引き上げたのが宗祇である。弟子とともに巻いた『水無瀬三吟百韻』(1488年)が代表作とされ、勅撰に准じる扱いを受けた『新撰菟玖波集』も編んだ。宗祇は各地を旅して連歌を教え広め、これによって文芸が京の貴族から地方の武士や町人へ開かれた。
俳諧の成立と芭蕉(17世紀)
近世に入ると、格式ばった連歌に対して、より自由で滑稽な趣を取り入れたが広まる。初期には二つの流派が相次いで流行した。
松永貞徳を祖とする貞門は、古典の教養を前提にした言葉遊びを身上とした。掛詞や縁語を俳諧に持ち込み、規則を細かく定めて、知識のある者どうしが機知を競う。これに対し、西山宗因を中心とする談林は、その規則を大きく緩めた。奇抜な着想と、速く多く詠む勢いを尊び、町人の生活感覚を句に取り込む。松尾芭蕉自身、はじめは談林の流行の中から出ている。
その芭蕉が、俳諧を別の次元へ引き上げた。言葉の機知で笑わせるのではなく、目の前の情景に静かに向き合い、そこに漂うものを掬い取る。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」——蝉が鳴いているのに「閑さ」と言う。声が岩にしみ入るという捉え方によって、音が逆に静けさを深くする。派手な趣向はどこにもなく、その場の感覚だけがある。
この境地は後に「さび」「しをり」「細み」といった言葉で語られるようになった。さびは古びたものに宿る静かな趣、しをりは対象への慎み深い哀れみ、細みは心を細やかに行き届かせること、とおおよそ説明されるが、いずれも芭蕉が体系立てて定義した用語ではなく、門人たちが師の作風を言い表そうとした言葉である。
一門の到達点を示す撰集が猿蓑(1691年)で、「俳諧の古今集」と呼ばれる。
芭蕉は旅を重ね、その記録をおくのほそ道にまとめた。旅の中で句を作り続ける生き方は、宗祇ら先人への敬意から出ている。
俳諧の第一句をといい、これにはとを入れる決まりがあった。「古池や蛙飛びこむ水の音」でいえば、「や」が切れ字、「蛙」が春の季語である。切れ字で句が一度切れることによって、前後の情景が響き合う。
門人では、都会的で機知に富む宝井其角が江戸で一派をなした。芭蕉の死後、俳諧は各地に広がって通俗化する。これを立て直そうとしたのが、18世紀の与謝蕪村による蕉風復興である。蕪村は画家でもあり、絵画的で鮮やかな句を残した。19世紀には小林一茶が、貧しさや小さな生きものへの情を、口語に近い言葉で詠んでいる。
和歌の側では、近世は停滞の時代とされる。宮廷歌人は古今以来の型を守り、新味を欠いた。その中で、国学者の賀茂真淵らが万葉集に帰ることを説き、また越後の良寛が流派に属さず、飾らない万葉調の歌を残した。
近代の革新 — 子規と新体詩(明治)
明治になると、二つの方向で大きな変化が起きる。
一つは、和歌と俳諧の内側からの革新である。担ったのが正岡子規だった。子規は連ねることを前提としてきた俳諧から発句だけを独立させ、「俳句」と呼び直した。同時に歌よみに与ふる書(1898年)で古今和歌集を痛烈に批判し、実朝や万葉集を範として、見たものをありのままに写す「写生」を説いた。今日の「俳句」「短歌」という呼び名と考え方は、ここから始まる。
短歌と俳句には、成り立ちの違いがある。短歌はもともと一人で完結する形式だったのに対し、俳句は複数人で連ねる俳諧の一部だった。俳句だけが、切り離されることで成立した形式である。との決まりが俳句にだけあるのは、それが連なりの中で最初の句が果たしていた役割——季節を示し、場を切って次へ渡す——の名残だからである。
もう一つは、西洋の詩をどう日本語で受け止めるかという課題である。最初の試みが新体詩抄(1882年)で、大学教授三人が西洋詩の翻訳と創作を集めた。従来の和歌・漢詩は短すぎて近代の思想を盛れない、という主張が序文に掲げられている。ただし訳文は文語の七五調で、器は古いままだった。
その七五調の文語で抒情の頂点を示したのが島崎藤村の若菜集(1897年)である。短歌では与謝野晶子のみだれ髪(1901年)が、女性の身体と情熱を大胆に歌って衝撃を与えた。石川啄木の一握の砂(1910年)は三行に分けて書く形をとり、日常の哀感を刻んでいる。
口語自由詩の確立(大正)
決定的な転換は、話し言葉によるの成立である。
萩原朔太郎の月に吠える(1917年)が、その画期とされる。文語の格調にも七五調にも頼らず、口語で神経の不安や生理的な感覚をそのまま書いた。ここで日本の近代詩は、ようやく内容にふさわしい器を得た。
同じ時期、高村光太郎は詩集『道程』で力強い意志の言葉を示し、後に智恵子抄で、病んで亡くなる妻を静かに見つめる詩を書いた。室生犀星は『抒情小曲集』で平明な郷愁の抒情を確立し、北原白秋は象徴詩から童謡まで幅広く手がけた。宮沢賢治は春と修羅で、科学の語彙と東北の言葉を交えた独自の世界を作っている。
短歌の側では斎藤茂吉が赤光(1913年)で写生を深め、若山牧水は旅と自然を平明な調べで歌って広く親しまれた。
前衛・戦争・戦後(昭和以降)
昭和に入ると、西洋の前衛の影響が本格化する。西脇順三郎はシュルレアリスムを日本に紹介し、理屈のつながらないイメージを並べる詩を書いた。一方で三好達治は、雑誌『四季』に拠って、平明で端正な抒情詩を作る。中原中也は「汚れつちまつた悲しみに」のように、繰り返しの多い歌うような調べで、やりきれなさを書いた。前衛と抒情が並び立ったのが、この時期である。
戦時下では、詩人の多くが戦意を高める詩を書いた。高村光太郎がその代表で、戦後は自らを「愚劣の典型」と呼んで責任を引き受けている。詩が国家に動員されたこの経験が、戦後の出発点になった。
戦後まもなく現れたのが、同人誌『荒地』のグループである。鮎川信夫・田村隆一といった、戦争を体験した世代の詩人たちで、廃墟となった文明と、生き残った者の空虚を見つめる詩を書いた。ほぼ同時期の『列島』は、社会の現実や労働の場に根ざした詩を掲げる。戦後の詩は、この二つの方向から動き出した。やがて谷川俊太郎のように、平易な言葉で広い読者に届く詩人も現れる。
短歌と俳句の側では、まず存亡そのものが問われた。1946年、フランス文学者の桑原武夫が「第二芸術」という評論で、俳句は十七音では近代の複雑な内容を担えず、芸術としては二流だと批判したのである。短歌にも同じ批判が向けられた。これに対し、定型の内側から新しさを出そうとする動きが起きる。短歌では塚本邦雄や寺山修司が、比喩を飛躍させ、句のつながりを断ち切る前衛的な作風を試みた。俳句でも、季語や定型の扱いを問い直す試みが続いている。
定型が生き残ったこと
最後に、日本の詩歌をほかの国と比べたときに際立つ点を挙げておく。
西洋では、20世紀に自由詩が主流になると、定型詩はほぼ表舞台から退いた。ところが日本では、口語自由詩が確立し、さらに第二芸術論のような正面からの否定を受けてなお、俳句と短歌という定型が現役の表現として並び立ち続けている。新聞や雑誌には投稿欄があり、句会や結社が各地で活動を続け、年間に膨大な数の句と歌が作られる。
理由の一つは、五七の音数が日常の日本語と地続きで、専門的な訓練がなくても口ずさめることにある。年賀状や標語、広告の文句にまで五七調が顔を出すほど、この調子は生活に染みている。
もう一つは、子規による革新のやり方である。子規は定型を壊さず、中身だけを入れ替えた。写生という新しい方法を持ち込みながら、十七音・三十一音という器はそのまま残したのである。定型を守りながら近代化するという道が、ここで選ばれた。西洋が器ごと作り替えたのとは対照的で、この選択が今日まで効いている。
その結果、自由詩の詩人と、俳人・歌人とが同じ時代に並び立ち、それぞれの読者を持つ。この重層が、日本の詩歌の現在の姿である。