中原中也

原綴
Nakahara Chūya
生没
1907–1937
出身
山口県吉敷郡山口町(現・山口市)
日本
時代
近代

生涯

1907年、山口の医家に生まれた。神童と呼ばれ、幼くして短歌を作っている。8歳のとき弟が死に、本人はこれを詩を書き始めた契機として語った。

中学で落第し、京都へ出る。16歳で年上の女優・長谷川泰子と同棲を始め、翌年に上京した。その泰子が、友人の小林秀雄のもとへ去る。この三角関係は、三人それぞれの仕事に長く影を落とした。中也は小林と絶交せず、生涯にわたって複雑な関係を続けている。

フランス象徴詩、とくにランボーに傾倒し、翻訳を手がけた。日本におけるランボー受容の一角を担っている。1934年、第一詩集山羊の歌を自費で刊行したが、部数はごくわずかだった。

1936年、2歳の長男が病死する。中也は精神に変調をきたし、療養した。翌1937年、結核性脳膜炎により30歳で死去する。第二詩集在りし日の歌は、死の直前に自ら編集を終え、小林秀雄に原稿を託していた。刊行は死後である。

作風

中也の詩は、声に出して読める。「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる」——この二行のリズムは、意味を追う前に耳に入る。音の反復と韻律が骨格になっており、朗読に耐える。

同時期の萩原朔太郎が口語自由詩を確立し、日本の詩は定型から離れていた。中也はその自由詩のなかに、歌のような反復を戻した。七五調に近い調子、同じ句の繰り返し、擬音(「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」)。理屈で組み立てず、音で組み立てる。そのため「分かる」より「覚えてしまう」種類の詩になっている。近代詩のなかで例外的に広く読まれ続けている理由は、ここにある。

主題は喪失と孤独である。弟の死、去った恋人、死んだ我が子、報われない生活。ただし嘆きを説明せず、情景と音の反復に置き換える。「サーカス」では、空中ブランコの揺れが擬音で反復され、そこに見物人の喧騒と夜の暗さが重なる。

作品

山羊の歌(1934年)

生前唯一の詩集である。「汚れつちまつた悲しみに」「サーカス」を含む。

在りし日の歌(1938年)

死の直前に自ら編み、死後に刊行された第二詩集である。「一つのメルヘン」「春日狂想」を含む。

翻訳ではランボーの『ランボオ詩集』がある。

文学史における立ち位置と影響

生前の中也はほとんど無名だった。詩壇に位置を持たず、詩集も売れていない。評価が確立するのは死後で、小林秀雄らが遺稿を整理し、戦後になって全集が編まれた。今日では、近代日本の詩人として最も読まれている一人と言ってよい。教科書に載り、歌になり、引用され続けている。

ただしこの人気には注意が要る。「夭折した純粋な詩人」という像が先に立ち、作品より生涯が語られやすい。実際にはフランス詩の理論を学び、韻律を意識的に操作しており、技術的な意識の高い書き手である。

宮沢賢治を早くから評価した人物でもある。賢治がまだ無名だった時期に、その詩の価値を認めた数少ない一人だった。著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。

作品

登場する文学史