三好達治
- 原綴
- Miyoshi Tatsuji
- 生没
- 1900–1964
- 出身
- 大阪市(現・大阪府大阪市)
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
生涯
1900年、大阪の印刷業の家に生まれた。家業が傾き、学費のかからない陸軍の学校へ進んだが、途中で退いている。軍人になる道を自ら断ったことになる。
その後、第三高等学校を経て東京帝国大学の仏文科に学んだ。在学中に萩原朔太郎の知遇を得て、その影響を強く受けている。同人誌『詩と詩論』に加わり、詩人として出発した。
1930年、最初の詩集『測量船』を刊行する。以後、詩作と並行してフランス詩の翻訳を続けた。
戦時中は戦争を鼓舞する詩を発表した。多くの詩人が同じ立場にあったが、三好の場合は量も多く、戦後に厳しく問われている。本人も戦後、その責任について書いた。
晩年は東京と福井を行き来しながら詩と評論を書いた。1964年、六十三歳で死去した。
作風
三好の詩は短く、形が整っている。口語で書きながら、七五調に近い調べを響かせ、漢語と和語を配分する。自由詩でありながら、古い日本語の韻律が下敷きにある。
代表作としてよく引かれるのが「雪」である。二行しかない。太郎を眠らせて太郎の屋根に雪が降り積もり、次郎を眠らせて次郎の屋根に雪が降り積もる、という同じ形の反復だけでできている。説明も感情の記述もなく、雪の降る夜の家々が並ぶ光景だけが残る。
叙景に徹する詩が多い。風景を描いて、そこに心情を直接書き込まない。読者の側に感じ取らせる書き方で、俳句や和歌の方法に近い。
フランス詩の翻訳も長く続けた。ボードレールの散文詩集パリの憂鬱の訳は広く読まれている。訳を通じて得た詩法が、自作の簡潔さを支えている。
作品
『測量船』(1930年)
最初の詩集である。「雪」「乳母車」などを収める。三好の詩の型がここで定まった。
『南窗集』(1932年)『閒花集』(1934年)
いずれも四行詩を中心にした詩集である。定型に近い短い形式を試みた時期にあたる。
『駱駝の瘤にまたがつて』(1952年)
戦後の詩集である。
『萩原朔太郎』(1963年)
師についての評論で、詩人論として評価が高い。
文学史における立ち位置と影響
三好は、萩原朔太郎が切り開いた口語自由詩を、整った形式へ引き戻した詩人にあたる。朔太郎の詩が不安や身体の感覚をそのまま書いたのに対し、三好は日本語の調べを整えた。
その平明さと端正さから、教科書に多く採られてきた。「雪」は日本の近代詩のなかで最も広く暗誦されている作品の一つである。
戦争詩の問題は、その評価に付いて回る。戦時中に軍を鼓舞する詩を大量に書き、戦後にその責任を問われた。詩人が国家に協力することの意味をめぐる議論では、繰り返し名が挙がる。作品の完成度と、書き手の政治的な選択をどう扱うかという問題が、ここにも現れている。
翻訳者としての仕事も残った。フランス近代詩の紹介を通じて、日本語の詩の語彙と方法に影響を与えている。