良寛
- 生没
- 1758–1831
- 出身
- 越後国出雲崎(現・新潟県出雲崎町)
- 国
- 日本
- 時代
- 近世
生涯
1758年、越後国出雲崎の名主の家に長男として生まれた。家業を継ぐべき立場だったが、18歳で出家する。備中(現在の岡山県)の円通寺で12年にわたって厳しい修行を積んだ。
修行を終えた後も寺の住職にはならず、諸国を巡ったのち故郷の越後へ戻る。国上山(くがみやま)の五合庵という小さな庵に住み、托鉢によって食を得る暮らしを続けた。子どもたちと手まりやかくれんぼをして日を過ごしたという逸話が多く残る。
晩年、40歳ほど年下の尼僧・貞心尼(ていしんに)と歌を交わす親交を結んだ。二人の贈答歌は歌集『蓮の露』にまとめられている。1831年、74歳で没した。
作風
歌は万葉集を範とし、飾りの少ない平明な言葉で詠んだ。当時の和歌が古今以来の技巧の型に従っていたのに対し、良寛の歌は型に寄りかからず、身の回りの出来事と心の動きをそのまま置く。
「霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつこの日暮らしつ」——春の一日を子どもと手まりをついて過ごした、というだけの歌である。何も飾らないことが、そのまま歌になっている。漢詩も多く作り、また独特の細く伸びやかな書は、後世の書家に高く評価された。
作品
生前に自ら歌集を編むことはなく、作品は写本や書の断片として伝わった。歌約1400首、漢詩約400首が知られる。
貞心尼が編んだ『蓮の露』は、二人の贈答歌を収めた歌集である。「形見とて何か残さむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」——形見に残すものは何もない、春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉があるのだから、という辞世の歌が広く知られる。
文学史における立ち位置と影響
良寛は、流派にも師にも属さない孤立した歌人である。近世の和歌が、古今以来の伝統を守る堂上派と、万葉集に帰ろうとする国学者たちとに分かれていた中で、そのどちらにも加わらず、独りで万葉の調子を体現した。
近代に入り、正岡子規らが写生と万葉調を掲げて短歌を革新すると、良寛の平明な歌はその先例として再発見される。飾らない言葉で生活と感情を書くという姿勢が、近代短歌の理想と重なったためである。書と生き方を含めた全体が、後世に敬愛され続けている。