藤原俊成

生没
1114–1204
出身
京(現・京都市)
日本
時代
中世

生涯

1114年、京の中級貴族の家に生まれた。若い頃から歌に打ち込み、歌合(うたあわせ)の判者として力量を認められていく。歌合とは、左右に分かれて歌を出し合い、優劣を判定する催しで、判者はその判定と講評を行う役である。俊成はこの役を数多く務め、判定の言葉を通して自らの歌論を築いた。

1176年に出家し、以後は釈阿(しゃくあ)と号した。1183年、後白河法皇の命により、七番目の勅撰集『千載和歌集』の撰進を単独で任される。91歳という当時としては異例の長寿を保ち、子の定家が新古今の中心となるのを見届けて世を去った。

作風

俊成が和歌の理想として掲げたのがである。言葉で言い尽くさず、その奥に情趣を漂わせる境地を指す。はなやかな技巧よりも、静かで奥行きのある調べを重んじた。

歌合の判詞では、歌の姿(すがた)や調べを問題にし、理屈で説明できない良し悪しを言葉にしようとした。また、古い歌の言葉を取り入れるを積極的に認め、これを技法として位置づけている。

作品

『千載和歌集』(1188年成立)は、俊成が単独で撰んだ勅撰和歌集である。源平の争乱を経た時代の集で、平忠度(たいらのただのり)が朝敵となった身を隠して「よみ人しらず」として収められた逸話が知られる。

歌論書『古来風躰抄』では、『万葉集』以来の和歌の歴史をたどりながら、歌の理想を論じた。自身の歌では「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」がよく知られる。

文学史における立ち位置と影響

俊成は、平安の和歌から新古今和歌集の世界への橋渡しをした歌人である。という理念と、本歌取りという技法を確立し、それを子の定家が受け継いで『新古今和歌集』に結実させた。

歌合の判者として多くの歌人を育て、その判定の言葉が中世の歌学の土台になった点も大きい。以後の和歌は、俊成・定家父子が定めた枠組みの中で長く展開していくことになる。