小林一茶

原綴
Kobayashi Issa
生没
1763–1828
出身
信濃国柏原(現・長野県上水内郡信濃町)
本名
小林弥太郎
日本
時代
近世

生涯

1763年、信濃国柏原(現・長野県信濃町)の農家に生まれた。本名は弥太郎。三歳で実母を失い、継母とのあいだがうまくいかなかった。十五歳で江戸へ奉公に出され、そこで俳諧を学んだ。

三十歳を過ぎてから、俳諧の修業をかねて西国を長く旅してまわった。江戸に戻ってからも定まった職はなく、俳諧の指導で細々と暮らした。父の死後は遺産の相続をめぐって継母や弟と十年以上も争った。

五十歳を過ぎてようやく故郷の柏原に落ち着き、以後は郷里で句作を続けた。晩年は結婚と死別、子の相次ぐ夭折、自宅の焼失と不幸が重なった。焼け残った土蔵(どぞう、土壁の倉)を住まいとして、そこで1828年に没した。妻の胎内にいた娘は、一茶の死の翌年に生まれ、この子だけが血筋を伝えた。生涯に残した句は二万を超え、江戸の俳人のなかで群を抜いて多い。

作風

一茶の句は、小さな生き物や身のまわりの暮らしを平易な言葉でうたう。「痩蛙(やせがえる)まけるな一茶これにあり」「われと来て遊べや親のない雀」のように、弱いものや幼いものへ語りかける句が多い。

方言や口語をそのまま句に取り込むのも一茶の特徴である。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」のように、話し言葉の調子がそのまま句になっている。技巧を凝らした松尾芭蕉の枯淡や、与謝蕪村の絵画的な美しさとは違い、一茶の句には生活の匂いと人間くさい感情がある。

境遇の不幸が句の背景にある。継母との確執、遺産争い、我が子を次々に失った悲しみが、生き物への共感や運命への諦めとなって句にあらわれた。「露の世は露の世ながらさりながら」は幼い娘を失ったときの句である。

作品

『おらが春』

晩年に故郷で書いた句文集である。「おらが」は「自分の」という意味の方言で、日々の暮らしと句をまじえてつづった一年の記録にあたる。生後まもない娘を失った悲しみもここに書かれている。

『父の終焉日記(ちちのしゅうえんにっき)』

父の死の前後を日を追って記した日記である。看病の日々と、遺産をめぐる家族の争いが包み隠さず書かれている。近世の日記文学としても注目される。

句は『七番日記(しちばんにっき)』などの句日記に大量に残され、生活と句作が分かちがたく結びついていたことを伝える。

文学史における立ち位置と影響

一茶は松尾芭蕉与謝蕪村と並んで江戸俳諧を代表する俳人に数えられる。芭蕉の精神性、蕪村の絵画性に対し、一茶は生活感と人間味で語られる。

一茶の句は専門家よりも、むしろ一般の読者に広く親しまれてきた。平易な言葉と弱いものへ向けたまなざしが、教科書や子ども向けの本にも数多く採られている。難解な解釈を必要とせず、そのまま心に届く句が多いためである。

正統な俳諧の流れからは外れた異端の俳人と見られることもあったが、その独自の俳風は近代以降にあらためて高く評価された。庶民の生活と感情を俳句にすくい上げた点で、一茶は江戸俳諧のもう一つの可能性を示している。

登場する文学史